第258号

   天安門事件で受難した学生、市民と解放軍兵士に黙祷を捧げます
   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  1999年(平成11年)6月8日発行  1994年(平成6年)11月 1日創刊


■COMのページhttp://www.come.or.jp/広告リンク募集中(com@come.or.jp)■

目  次●com/j1999/06b.txt   next (j1999/06c) previous (j1998/06a)

新聞簡訊
総合報道●天安門事件十周年
総合報道●北朝鮮代表団の訪中終了、友好関係修復
日本社会●日本の外国人登録、昨年末で150万人台に
民主運動●民主化運動の情報発信基地 香港のニュースセンター
中米関係●米国、対中「最恵国待遇」を一年更新
国内経済●人民元の国外交換禁止
六四事件◆89年天安門事件における「虐殺」説の再検討‥‥‥‥‥‥村田忠禧
情報伝言◆世界各国の童謡をCD化‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥多文化共生センター

【新聞簡訊】

★[06/08] 中国人民銀行8日発表の人民元レートは次の通り。(単位、元)
日本円(100円)              6・7927
米ドル(100ドル)             827・81
香港ドル(100ドル)            106・64

★[06/07] 7日付の香港各紙によると、今年1−5月の関税と輸入税の総額は、
密輸取り締まりの効果で、前年同期の2倍強にあたる631億2000万人民元
(約9700億円)に上ったことが分かった。今年に入り5カ月で、年間の徴税
予定額の77%を達成したことになるという。この間の密輸摘発件数は4323
件。この結果、正規ルートでの輸入が拡大しており、輸入総額は前年同期に比べ
81・3%の大幅な増加となった。

★[06/07] 共同通信が伝えた国家工商行政管理局によると、3月末現在の私営企
業総数は122万9200社に達し、登録資本は7500億元を超えた。第1四
半期には私営企業は前年同期比6万7000社増え、平均登録資本も同8万15
00元増の61万6500元に達した。

★[06/06] 朝日新聞社によると、日本共産党の研究視察代表団が6日、中国を訪
問した。中国共産党の招きによるもので、中国の社会主義市場経済について視察
するのが目的。中日両党が32年ぶりに関係を正常化させ、昨年夏に不破哲三日
本共産党委員長が訪中した際に合意していた。今年後半には中国側代表団が日本
を訪問することになっており、正常化後の初の党間交流となる。

★[06/06] 時事通信によると、中南海の周辺で4月に1万人以上が座り込む大規
模な示威行動を行った気功集団「法輪功」が、その後も警察当局などに活動を妨
害されているとして、インターネットのホームページで抗議、政府側に対応を求
めていることが6日、分かった。法輪功はホームページで、遼寧省・大連で4日
夜、資料をコピーしていた1人が当局に不当に逮捕されたと主張。

★[06/05] 朝日新聞社によると、国連経済社会理事会で、非政府組織(NGO)
に専門分野の協議で発言できる「諮問的な地位」を与えるかどうかを決める国連
NGO委員会(19カ国)は4日、ニューヨークを本拠に国内の人権状況を批判
しているNGO「中国人権」(主席・劉青)の申請を反対多数で却下した。賛成
は米国とフランス、アイルランドの3カ国だけで、中国とロシア、インド、パキ
スタン、キューバ、トルコなど13カ国が反対した。

★[06/05] 共同通信が伝えた四日付の羊城晩報によると、広州市中級人民法院は
三日、非合法な政治的内容の図書を出版したとして、出版業、魏洪洋被告に懲役
五年と罰金三万元(約四十五万円)、印刷業、トウ志飛被告に懲役四年と罰金四
万元(約六十万円)の実刑判決を言い渡した。ただ、書物の内容や禁書とされて
いる理由は明らかにされていない。二人とも二月に逮捕された。      

★[06/04] 時事通信によると、ユーゴスラビアによる米欧ロの和平案受け入れに
ついて、外務省の朱邦造報道局長は4日、新華社通信を通じてコメントを発表し、
ユーゴの受諾表明に「留意する」とした上で、「当面の急務は北大西洋条約機構
(NATO)がユーゴ空爆を即時停止し、コソボ問題の平和解決のため必要な条
件を作り出すことである」と強調した。
 
★[06/04] 読売新聞社によると、沼田貞昭日本外務報道官は四日の記者会見で、
中国の海洋調査船が、釣魚島(日本名・尖閣列島)周辺海域で調査活動を活発化
していることに対し、政府に抗議の申し入れを行ったことを明らかにした。日本
海上保安庁によると、調査活動が今年に入って十件以上確認された。これに対し
て、時事通信によると、唐家せん外相は、「(このあたりに)中国と日本の間で
排他的経済水域に関する合意はない。合法的活動である」と答えたという。

★[06/04] 四日付の労働報によると、国内の出稼ぎ労働者は七千万人に上り、全
就業人口の一割を占めている。ほとんどが農村の余剰労働力とみられる。一人当
たりの年収は六千二百六元(約九万三千円)で、故郷に持ち帰る総額は二千二百
億元(約三兆三千億円)と試算される。政府は、輸出不調のため内需拡大を模索
しており、この出稼ぎ収入も消費のターゲットとして注目されている。

To top of this document 


【総合報道】
           天安門事件十周年

 6月4日に天安門事件十周年を迎えた。世界各地の様々な動きをまとめた。

 天安門事件再評価を求める署名活動は、署名者が10万人を越えたと、組織者
の王丹さんが7日に発表した。それによると、www.june4.orgにだけでも、2万
以上の署名が寄せられ、国内からも千件以上あったという。

 朝日新聞社が伝えた香港の中国人権民主化運動情報センターによると、天安門
事件10周年の4日、陝西省西安市の民家で、事件の追悼集会を開いた民主活動
家3人が公安当局によって身柄を拘束された。これで過去1カ月間、同事件10
周年の活動に絡んで拘束された活動家は140人近くに達し、うち48人が拘束
されたままだという。

 5日付の共同通信によると、香港大学学生会と香港の民主派組織メンバーは五
日未明、中国復帰前にデンマークの彫刻家が制作し香港に持ち込んだ天安門事件
記念碑「恥辱の塔」(高さ八メートル)を大学構内に設置した。

 大学当局は「正式な設置許可を取るべきだ」と反対の立場を示していたが、搬
入阻止はしなかった。学生との衝突で「自由を抑圧した」との印象を避けるため、
暫定的な設置を黙認したとみられる。学生会は塔の永久設置を決めているが、大
学当局が応じるかどうかは不明。

 4日の読売新聞社の報道によると、香港の各テレビが北京発で伝えたところに
よると、四日、北京の天安門広場前の歩道で、中国民主化や汚職の一掃を求める
ビラを配った男性と、同広場周辺で「中国の人権を改善せよ」などの文字が記さ
れた傘を広げた男性が、それぞれ公安当局に拘束された。

 傘には、「中国民主党は学生の民主化運動十周年を支持する」とも記されてい
たといい、傘を持った男性が、中国民主党の結成を目指す民主活動家グループの
関係者である可能性もある。

 また、香港の人権団体「中国人権民主化運動ニュースセンター」によると、浙
江省温州市の活動家が四日、事件の再評価や活動家の釈放などを当局に求める書
簡を、同市政府に届けた。

 4日の毎日新聞社の報道によると、4日夜、オーストラリア・シドニーの中国
領事館前に100人ほどの中国人留学生が集まり、ロウソクに火をともし、政府
に天安門事件の釈明を求めた。

 ニューヨークでは、天安門事件10周年を記念した集会が3日深夜から4日未
明にかけて市内のキリスト教会で行われ、当時の学生運動指導者だった李録さん
(37)も参加して、ロウソクに火をともして弾圧の犠牲者を悼んだ。「中国人
権」の主催した集会で、犠牲者の家族らから集めた証言を参加者が代読した。南
京大学生で天安門の学生たちを指導した李さんは「恐怖を克服して民主化デモを
拡大させたが、当局は運動を踏みにじった」と語った。事件後、米国に脱出した
李さんは現在、投資ファンド会社を経営。元指導者で、昨年釈放された王丹さん
はハーバード大学大学院で歴史学を学ぶなど、活動家はそれぞれの人生を歩んで
いる。米国内での中国民主化運動は低調気味で、この日の集会も約200人の参
加者のうち中国人はわずかだった。

 香港では、4日夜、香港のビクトリア公園で、犠牲者をしのび、大陸に民主化
を求めるキャンドル集会が開かれた。「香港市民愛国民主運動支援連合会」(支
連会)主催の恒例行事で、97年の香港返還後は2回目。支連会は今年初めから、
事件の再評価を求める署名活動や国際シンポジウムなどを行っており、この日の
集会でも事件が風化しないよう訴えた。7万人の参加者があったという。

 集会は午後8時スタート。集まった市民は犠牲者に黙とうして献花し、全員が
キャンドルに火をともして追悼した。司徒華・支連会主席らが米国に滞在中の民
主活動家、王丹氏と電話で対談し、本土の民主化などについて話し合った。

 香港では返還後、デモや集会の規制が強化されたが、香港当局は今年のキャン
ドル集会も許可した。しかし、天安門事件10周年の関連行事参加のため、支連
会が招いた王氏や魏京生氏ら海外在住の民主活動家の入境は認めず、民主化運動
に一定の制限を加える姿勢も示した。

 香港大学社会科学研究センターが五月末、市民約五百三十人を対象に実施した
世論調査によると、天安門事件での武力鎮圧について「間違い」とする回答が、
前年同時期の五五・二%から五六・八%に微増した。

 2日の朝日新聞社によると、天安門事件の遺族ら105人のグループが、当時
の政府・軍指導者らを起訴するよう求める訴状を最高人民検察院に提出した、と
「中国人権」が1日発表した。訴えの対象には、李鵬・全人代常務委員長らも含
まれ、事件の責任追及と真相解明を求めている。「中国人権」によると、105
人の訴状は、学生デモを武力で鎮圧した当時の軍・政府幹部らの行動は計画的殺
人などの罪に当たるとして、事件前の戒厳令公布に直接関与した李鵬氏ら現指導
者の起訴と謝罪を求める一方、故トウ小平氏らの関与も捜査するよう訴えている。

 訴状には、死亡者155人と負傷者65人のリストとともに、遺族らの署名入
りの目撃証言書が証拠として添付された。代表の女性2人が5月17日と24日
の2回、検察院に出向き、入り口門で応対した職員に手渡したという。「中国人
権」の蕭強・執行主任は「事件の加害者は10年たった今も裁かれていない。こ
の遺族らの行動は中国では例のない司法直訴だ」と表明した。

 4日の共同通信が伝えた星島日報によると、最高人民検察院スポークスマンは
三日、天安門事件の負傷者と犠牲者の遺族計百五人が、事件当時、首相だった李
鵬・全国人民代表大会常務委員長ら指導者を「殺人容疑」などで捜査・起訴する
よう求めた請願を「受け入れられない」と述べた。           

 スポークスマンは「天安門事件については(反革命動乱との)結論が出ており、
事件に絡む(指導者の)起訴はあり得ない」との見方を示したという。

 遺族らは、中国の国内法に基づく訴えが当局に受け入れられなければ、国際司
法裁判所に告発するとしており、今後、国際法廷に李鵬氏らの“刑事責任”をめ
ぐる審理を仰ぐ可能性がある。

 一方、日本では、毎日新聞社によると、天安門事件から4日で10年となるの
を前に3日夜、東京・渋谷で「天安門事件10周年集会」が開かれた。日本にい
る中国人の民主化運動の活動家や支援者ら約100人が参加した。アムネスティ
・インターナショナル日本支部が主催した。

 参加者は事件の犠牲者を悼む花やペンライトを持ち、「天安門事件を忘れない
ぞ」と渋谷の街を約1時間、デモ行進した。その後、渋谷区内の公園に集まり、
政府に対し、天安門事件との関連で獄中にいる政治犯241人の釈放や、事件真
相の究明、犠牲者への補償を求める共同声明を採択した。

 大阪でも、5日、アムネスティ・インターナショナル日本支部の主催で、記念
集会が開かれた。100人近くが参加した。記録映画「天安門」を上映後、中之
島の公園にて息子を事件で亡くした丁子霖さんが書いた息子を偲ぶ文章の朗読に
続き、キャンドルを灯し、犠牲者を追悼した。

 毎日新聞社柴沼均記者が民主化運動の当事者を取材した。「あなたからの難民
認定の申請については、難民の認定をしないこととしたので通知します」。東京
都練馬区の「民主中国陣線」理事、王進忠さん(36)の手元に昨年12月、日
本法務省から1通の文書が送られてきた。

 事件から10年。かつては200人ほどいた「民主中国陣線日本分部」のメン
バーも今は50人ほど。生活をするには、活動時間は制約される。また、中国か
ら来た若い人に「王さんは10年も中国に帰ってないんでしょう。今は中国は自
由の国ですよ」と言われたこともある。そんな時、当時のニュースビデオを見せ
ると「こんなひどいことが行われていたなんて……」と初めて驚いた人もいた。

 王さんは「中国でも若い人は天安門事件のことをもう知らない。我々が伝えて
いかなければ」と言う。

 事件の影響は今も続いている。アムネスティ・インターナショナルの調査では
241人が今も長期服役中。王さん自身も留学生でありながら、事件への抗議デ
モを日本で行ったため、帰国はできない。祖父母の葬式にも出られなかった。い
つかは中国政府の姿勢が変わり、母国へ帰れると信じていたが、民主化運動への
壁はなお厚く高い。

 王さんは97年11月、難民申請を行った。しかし、申請期限を過ぎていると
認められなかった。現在は法相が特別に認める「特定活動」の資格で日本に滞在
しているが、毎年、更新しなければならず、結婚にも煩雑な手続きが必要となり、
ままならない。昨年だけで、20人以上が却下されたという。

 アムネスティ・インターナショナル日本支部によると、中国の民主運動家が難
民申請を認められた例は聞いたことがないという。

To top of this document 


【総合報道】
          北朝鮮代表団の訪中終了、友好関係修復

 7日の共同通信によると、朝鮮民主主義人民共和国の金永南・最高人民会議常
任委員長ら代表団は七日、五日間の中国訪問の日程を終え帰国した。今回の訪問
は伝統的な友好関係を修復し、対米関係などにおける共同態勢を強化するなど中
朝両国ともに大きな成果を上げた。

 昨年九月に新体制を発足させた北朝鮮と、一九九七年の第十五回党大会で新指
導部がスタートした中国は今回の北朝鮮代表団訪中でポスト「トウ小平―金日成
時代」の友好関係のスタートを築いたといえる。

 最大の成果は、九二年の中韓国交樹立や金日成主席の死去などで疎遠になって
いた伝統的友好関係の修復を公式に確認したことで、政府は食糧十五万トン、コ
ークス四十万トンの提供も約束した。

 首脳相互訪問の伝統も復活し、北朝鮮は中国側首脳の訪朝を招請、中国側も受
け入れた。朱鎔基首相の年内訪朝の可能性が浮上しており、今後、首脳陣の往来
が金正日総書記や江沢民国家主席の訪問に発展するかが焦点となる。

 また、北朝鮮側は「中国の改革・開放を全面的に支持する」(金永南委員長)、
中国側は「朝鮮式社会主義の発展を支援する」(李鵬・全国人民代表大会常務委
員長)とし、双方が相手の国の路線を相互尊重することを確認した。改革・開放
をめぐる路線の違いを「相互尊重」という枠で整理した意味は大きい。

 ユーゴ情勢などの国際問題では、共同対応していく姿勢を明確にし、ロシアを
含めた旧社会主義陣営の共同対応による対米けん制態勢の基盤をつくった。

 特に、中朝両国の軍部は現在の国際情勢に危機感を深めており、北朝鮮の金鎰
テツ人民武力(国防)相が同相としては七年ぶりに訪中し、軍部間の関係強化を
確認した。国防相会談では「中朝両国の軍と人民は共同の敵に反対する闘争、社
会主義革命と建設事業でお互いを支持、支援しながら、伝統的親善関係を維持、
発展させる」ことで意見の一致をみた。   

To top of this document


【日本社会】
       日本の外国人登録、昨年末で150万人台に

 5日の読売新聞社報道によると、外国人登録を行っている在日外国人は、九八
年末現在で過去最高の百五十一万二千百十六人に達したことが、日本法務省入国
管理局が五日発表した統計で明らかになった。外国人登録者数は年々増加してお
り九〇年に百万人を突破、今回は、過去最高だった九七年の百四十八万二千七百
七人をさらに上回り、初めて百五十万人台となった。日本の総人口(昨年十月一
日現在)に占める割合も1・20%と過去最高だった。

 国籍、出身地別にみると、韓国・朝鮮が六十三万八千八百二十八人(前年比六
千五百四十五人減)で最も多く、以下、中国二十七万二千二百三十人(同二万六
十六人増)、ブラジル二十二万二千二百十七人(同一万千三十七人減)、フィリ
ピン十万五千三百八人(同一万二千四十三人増)の順だった。韓国・朝鮮出身者
の全体に占める割合は42・2%で前年より1・3ポイント減少し、このところ
減少傾向が続いている。

 一方、空港などで上陸を拒否された外国人は、九八年一年間で一万千五百四十
六人(前年比18・6%減)と、八八年以降十一年連続で一万人を超えた。入国
後、不法残留などで母国に強制送還された外国人は昨年一年間で約四万八千人。
このうち八割以上が不法就労者だった。

To top of this document


【民主運動】
       民主化運動の情報発信基地 香港のニュースセンター

 4日の共同通信によると、活動家の海外逃亡を助けるなど、本土の民主化運動
を支えてきた香港は、一昨年七月の返還後も本土の民主化運動や弾圧の動きに関
する情報発信基地として機能している。    

 昨年十二月、本土で新政党「中国民主党」の設立準備を進めていた活動家の起
訴をいち早く伝えるなど、連日、民主化運動に絡む情報を流しているのが香港の
人権団体「中国人権民主化運動ニュースセンター」。

 一人でセンターを運営している湖南省長沙出身の民主活動家、盧四清氏(34)
は、ポケットベルや携帯電話、電子メールで本土の活動家らから情報を収集。昨
年は五百三十五本。今年はこれまでに二百四十本のニュースを発信した。

 その多くは、西側報道機関によって世界に伝えられるだけでなく「米国の声(
VOA)」放送などで本土にも流れ「約五千万人がセンターの情報を耳にしてい
る」(盧氏)という。

 盧氏によると、本土の警察当局はポケベルにひっきりなしに偽のメッセージを
送るなど嫌がらせを続けている。同氏は、香港政庁が今後、香港のミニ憲法「基
本法」に基づいて「国家分裂」などに当たる行為を具体的に規定した場合、活動
が制限される恐れがある、と指摘した。

To top of this document


【中米関係】
        米国、対中「最恵国待遇」を一年更新

 4日の朝日新聞社報道によると、クリントン米大統領は3日、中国に対する最
恵国待遇(MFN)を1年延長する方針を議会に通知した。中国大使館「誤爆」
に伴う反米デモや核スパイ事件のあおりを受け、MFN更新と中国の世界貿易機
関(WTO)加盟に対する議会の風当たりは強い。4日の天安門事件10周年と
重なったこともあり、MFN延長をめぐる議会の論議は、拡大する対中貿易赤字
だけでなく、人権、安全保障も巻き込んだ対中関与政策全般に及びそうだ。

 クリントン大統領は同日の声明で、「中米の貿易関係維持は、米国の労働市場
と中国の市場改革、世界経済のいずれにも利益をもたらす」とMFN更新の意義
を強調し、「対立政策は、中国国内の門戸開放と自由への反対勢力を強めるだけ
だ」と、関与政策を継続する意向を示した。

 米政府が「通常貿易関係」(NTR)に呼び方を変えたMFNは、1980年
から毎年更新されている。大統領の通知に対し、議会は90日以内に反対決議が
できる。可決されても大統領には拒否権があり、それを覆すには上下両院の3分
の2以上の同意が必要。中国市場での経済活動拡大を望む財界は、議会へのロビ
ー活動を続けており、MFNの延長自体は最終的に承認される見通しが強い。

 ただし、クリントン政権は、中国のWTO加盟問題に絡んで、MFNの恒久化
も提案する姿勢を示しており、そこまで議会が承認するかは不透明だ。1年延長
を認めるにしても、この機を利用して対中国関与政策の「甘さ」を突く議会の声
が高まるのは必至だ。

 一方、5日の共同通信によると、外務省の朱邦造報道局長は四日、クリントン
米大統領が中国への最恵国待遇(MFN)の一年間更新を決定したことに関し、
「米国は早くMFNの恒久化の問題を解決すべき」と述べ、MFNの恒久化を求
めるコメントを発表した。                       

 朱局長は「MFNは中米間の正常な貿易の基礎であり、両国の利益にかなうも
のだ」と強調した。 

 また、4日の時事通信によると、朱鎔基首相は4日、ユーゴスラビアの中国大
使館「誤爆」事件以降中断している、世界貿易機関(WTO)加盟をめぐる中米
協議について、「交渉再開に適した時期ではない」との見解を表明、既に江沢民
国家主席がこうした考えを電話会談を通して、クリントン米大統領に直接伝えた
ことを明らかにした。香港の地元テレビ局などが伝えた。

To top of this document  


【国内経済】
         人民元の国外交換禁止

 3日の共同通信によると、政府は為替管理強化の一環として人民元の国外にお
ける交換禁止に乗り出した。複数の金融当局者が3日明らかにした。

 規制当局が発令し、10日から適用されるという新しい規制では、現在は可能
な国外にある人民元と米ドルの交換が、実質的に不可能となる。規制変更により、
こうした人民元の交換業務を手掛けている3000の外国銀行が影響を受けると
いう。

 為替管理の規制を一段と厳しくしているのは、資本流出を抑える狙いがある。
ただ市場の一部からは、政府が人民元切り下げを検討しているとの観測も出てい
る。

六四事件◆89年天安門事件における「虐殺」説の再検討‥‥‥‥‥‥村田忠禧
情報伝言◆世界各国の童謡をCD化‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥多文化共生センター
 

To top of this document



【六四事件】
        89年天安門事件における「虐殺」説の再検討
                               村田忠禧

(94年3月25日発行の東京大学教養学部外国語科紀要第41巻第5号より)

目次

1)問題点の所在
2)事件の概要
3)中国共産党政権崩壊説の破綻
4)「虐殺」と称すべき事態が発生したのか
5)戒厳部隊の対立説について
6)「民主化」要求運動の本質
7)思い入れ先行の「研究」の危険性
8)エピローグ

1)問題点の所在

 1989年6月23日から24日にかけて北京で開催された中国共産党第一三期中央委
員会第四回全体会議についてのコミュニケは,同年4月以来の中国国内の情勢分
析を行い,「ごく少数の者が学生運動を利用して,北京と一部の地方で計画的,
組織的な前もって企まれた政治動乱を引き起こし,さらには北京でそれを反革命
暴動にまで発展させたと指摘した。彼らが動乱と暴乱を策動した狙いは,ほかで
もなく中国共産党の指導を覆し,社会主義の中華人民共和国を転覆させることに
あった。この厳しい政治闘争において,党中央の行った政策決定ととった一連の
重大な措置はいずれも必要かつ正しいものであり,全党,全国人民の支持を得て
いる。全体会議は,トウ小平同志を代表とする古参のプロレタリア革命家が今回
の闘争で果たした重要な役割を高く評価し,首都の反革命暴乱を平定する過程で
中国人民解放軍,武装警察部隊,公安部門の幹部・警察が行った極めて大きな貢
献を高く評価した」(『求是』89年第13号)との評価を下した。この評価は92年
10月12日の中共第一四回全国代表大会における江沢民の報告でも「1989年の春か
ら夏にかけて発生した政治風波に,党と政府は人民に依拠し,旗幟鮮明に動乱に
反対し,北京で発生した反革命暴乱を平定し,社会主義国家の政権を防衛し,人
民の根本的利益を保護し,改革開放と現代化建設が引き続き前進するのを保証し
た」(『求是』92年第23期)と変わっていないし,今日にいたるまで89年6月に
北京で発生した事件を「反革命暴乱」と規定する中国共産党,中国政府の評価に
変化は見られない。

 しかし,軍隊を投入しての同事件への処理について,アメリカ政府を筆頭にし
た先進諸国は,自由と民主を願う学生・市民の自発的運動を軍事力で鎮圧し,人
権を無視した非人道的措置であるとして,中国政府非難の合唱と経済制裁の発動
などを行い,今日にいたるまで同事件についての評価は中国政府・中国共産党の
それと真っ向から対立している。

 国内の紛争に警察・軍事力を投入することは,歴史上よく見られることである。
ことに米ソ両超大国による世界支配の構図が消滅するに伴い世界各地で頻発して
おり,何も中国だけの専売特許ではない。なかでも93年10月3日にロシアにおい
て,エリツィン大統領が議会に勢力を持つ反対派にたいして,中国と同様に軍隊
を導入し,モスクワの通称「ホワイトハウス」(最高会議ビル)に立てこもった
反対派に対して,戦車を用いた砲撃をしかけて鎮圧,投降させるという,中国以
上に手荒な手法による「問題解決」を行った。しかしエリツィン大統領のこの措
置について,アメリカ政府は極めて理解を示し,支持の態度を直ちに表明したこ
とは人々の記憶に新しい。日本政府やマスコミ,あるいは研究者のロシアへの対
応も,89年の中国への対応とは明らかに異なっている。

 本来,国内問題はそれぞれ国内の事情というものが主たる要因となって発生し
ているのであるから,それら内部要因について熟知せず,ただ自国もしくは個人
の狭隘な知識や価値観に基づいて他国の内政問題に口を挟むことは慎むべきこと
である。対象となる国の政治動向や社会情勢を熟知している人々,例えば外交官,
商社等の駐在員,大学等研究機関での研究者等が,それぞれの専門的見地から見
解を発表することがありうるし,現実にさまざまな国際問題について,多くの研
究者が専門的知識をもとに専門家として社会的啓蒙を行っている。専門家が専門
家たる所以である。

 しかるに中国についてとなると,遠くは日本が中国への侵略戦争をした時代か
ら,近くは文化大革命にいたるまで,中国研究者による冷静で客観的な情勢分析
や研究というものがなされてきたとは言いがたい過去がある。とりわけ1989年に
発生したいわゆる89年天安門事件をめぐっては,事件の展開そのものについての
認識,さらにはこの事件が処理された後の中国の政治や経済の展開をどう評価す
るかという点についても,日本の中国研究者の一部には,現実とは大きくかけ離
れた見解を発表しているのが見受けられる。

 それらは中国で発生する事態を,客観的な研究対象として事実に基づいて研究
・分析するのではなく,自己の思い込みや根拠薄弱な情報(多くは香港や台湾な
どから流される政治的意図の込められたガセネタ,元駐中国大使の中江要介の表
現を用いれば「玉石石石混淆」の情報〔中江要介著『残された社会主義大国中国
の行方』KKベストセラーズ出版40頁〕)を元に,その内容について吟味するこ
とをせずにただ受け売りするとか,心情的にいわゆる「民主派」勢力への肩入れ
・宣伝をするのみで,研究者としてなすべき作業を放棄した失格の対応がかなり
見られた。本論では89年6月の北京への戒厳部隊投入による「問題解決」につい
ての,日本の中国研究者の対応を検討することで,ささやかながら日本人中国研
究者の現代中国認識の問題点の根源に迫ってみたい。

2)事件の概要

 89年の4月から5月半ばまでの学生の対話要求運動の顛末については,筆者は
すでに90年の段階で詳細に検討し,論文を発表しているし,6月までの運動の流
れについても,大事記を作成しておいたので,ここでは簡単に概況を紹介してお
くに留める。詳しくは矢吹晋編『天安門事件の真相』(下巻)所収の拙論「一九
八九年春の中国学生運動−−対話要求顛末記」および村田忠禧編『チャイナ・ク
ライシス「動乱」日誌』(いずれも蒼蒼社刊)を参照していただきたい。

 1989年4月15日の胡耀邦逝去に端を発した北京の学生運動は,胡耀邦の名誉回
復を要求するなど,当初から政治的性格を帯びていた。中共中央の機関紙『人民
日報』が4月26日に動乱への警戒を呼びかける社説を発表し,強行姿勢を示した
ことに威圧を受け,学生運動は5月4日の五四運動七十周年記念デモでもって一
先ず授業ボイコットと街頭デモの戦術を転換し,正常化するものと思われた。し
かし朝鮮訪問から帰国した中共中央総書記趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行総
会代表団一行と会見した際に,それまでの党中央の方針とは異なる,学生運動に
理解ある態度を示す発言をしたことから,学生たちは運動の再構築に一縷の望み
を抱くようになった。また同時期に発生した上海『世界経済導報』発禁処分に抗
議する報道関係者など知識人層が「報道の自由」を要求して,学生運動と歩調を
合わせる動きを見せた。このため退潮期に向かっていた運動は,一部の強硬派学
生が「対話要求」を旗印に掲げ,天安門広場を占拠しハンガーストライキに突入
するという強行路線を取り運動の再構築を図った。この戦術は一般市民の関心を
集め,ハンスト学生への同情とともに,インフレへの不満や「官倒」に代表され
る権力層の不正・腐敗現象への憤りなど,改革・開放政策の進展のなかで発生し
ていた諸々の歪みへの民衆の鬱積した不満が,洪水のごとく沸き上がった。

 ことに共産党内に学生運動への対処の仕方をめぐって,対話に応じて穏健に処
理すべきとする非主流派(趙紫陽に代表される)と,4月26日の人民日報社説の
方針通りに毅然たる対処をすべきとする主流派(トウ小平・李鵬に代表される)
の対立が存在することが明白になり,各機関・組織の党組織のうちの非主流派が,
公然とそれぞれの所属単位の人員を動員して,ハンスト学生支持の行動の立ち上
がった。当局内部でも,統一戦線工作部部長閻明復らは,学生との対話に応じて
ゴルバチョフ訪中前に事態の打開を図ろうと必死の努力をするが,党内では孤立
した動きとならざるをえなかった。また学生側でも運動の主導権をめぐっての内
部対立と,野次馬のごとく地方から上京した学生たちの下からのより強硬な要求
の突き上げにより,理性的対話による解決は実質的に不可能な状態に陥っていた。
おりしもゴルバチョフの訪中という,中ソ関係にとって歴史的出来事で世界各国
からマスコミが北京に集結したが,中ソの歴史的和解劇は完全に天安門広場のハ
ンスト学生の動向に左右され,学生運動指導者は世界のマスコミの寵児となった。

 北京の主要な党組織・機関は学生の対話要求への対応をめぐって実質的に分解
し,組織として機能しなくなった。しかも北京の学生運動の動きはVOAなど海
外の報道に助けられ,全国に波及する勢いを見せていた。一方,学生運動の指導
者層も,地方や外部から次々と新参の勢力が入り込む予想外な発展ぶりに,広場
からの撤退かハンスト堅持かをめぐって統制不能な状態に陥っていた。

 5月16日,趙紫陽がゴルバチョフと会見した際に,トウ小平こそが中国の最高
意思決定者であるという事実を意味ありげに公表したことにより,行き詰まりを
見せていた運動は,憤懣のはけ口をトウ小平に向けることとなり,トウ小平の引
退,李鵬打倒の要求を公然と掲げ,現政権打倒を目指す反政府運動へと性格を転
換していった。

 しかしそれは本質的に見れば党内の意見対立の反映であったため,トウ小平・
李鵬ら中共内部の主流派(学生たちの掲げる要求をブルジョア自由化要求と見な
し,強硬な態度で対処すべきとする見解で一致している)は,北京市に戒厳令を
発動し,当局側の統制から外れた報道機関や発電所など保安部署への戒厳部隊の
進駐を決定し,実行に移した。趙紫陽はこの時以降,党総書記の地位を実質的に
は解任された。戒厳部隊は当初,部隊の出動は学生に向けたものではない,とし
て,学生への説得活動に重点を置き,彼らのバリケード等を築いての阻止行動に
たいして,直ちに強行手段を用いて入城しなかったため,事態は膠着状態に陥っ
た。

 学生運動の指導権は地方からやってきた新参グループに握られ,運動指導者内
部での対立も発生した。労働者の中でもこれを期にポーランドの自主労働組合「
連帯」のような在野組織を作ろうとする勢力が公然と活動を開始した。香港や台
湾でも北京の学生を支援する集会等が組織された。北京の交通の要衝にバリケー
ドが作られ,市内は無政府状態に陥った。各地で市中心部の指定された守備拠点
に進駐しようとする戒厳部隊と,それを阻止しようとする群衆との衝突が発生す
るようになり,6月に入ると軍の武器・弾薬を積んだ車が群衆に包囲される事件
まで発生し,公安の自動車や軍用車のナンバープレートが学生側に盗まれる事態
も生じた。

 もはや事態の打開を説得工作によって理性的に解決できる状況にはなく,政府
当局側としては強行手段を採るしかなくなっていた。5月末までに全国の中共各
省委員会,省政府,軍区党委員会,中央重要機関は戒厳令発動支持の態度表明を
しており,学生らが掲げる李鵬政権打倒の可能性が無に等しいことは明白であっ
た。5月31日にトウ小平は李鵬,姚依林にたいして,趙紫陽に代わって江沢民を
中核とする新指導部の組織化を命じ,動乱平定後も改革・開放政策を実行すべき
ことを伝えた(『トウ小平文選』人民出版社93年10月第3巻 310頁)。全国7大
軍区のうち成都,蘭州以外の軍区から北京への部隊の動員令が出された(矢吹晋
著『天安門事件の真相』上巻,蒼蒼社90年6月, 125頁の表による)。6月3日
になり,天安門広場の清場を目的として北京郊外の東西南北すべての方向から戒
厳部隊が出動した。主力部隊は西側マスコミ等大方の予想に反して西から進軍し
てきた。西長安街の革命軍事博物館を中継地点とし,天安門広場の東側にある人
民大会堂のなかに戒厳部隊の指揮部が設けられた。

 6月4日未明の段階で,天安門広場には約3000人ほどの学生,市民らが居
残っていた。そこにはそれまでに鹵獲した武器や自分たちで製造した火炎瓶や煉
瓦や石ころなどの抵抗用の武器が用意されていた。戦車・装甲車などを動員した
戒厳部隊が広場の学生たちを強制排除する際に,学生たちが用意したそれら武器
類は,数や質の面からすればとるに足らぬものであったが,それでも彼らが手持
ちの武器で応戦した場合には,戒厳部隊からの反撃を受けて死傷者が出る危険性
があった。現に西長安街では戒厳部隊の進軍にたいして石や煉瓦が雨あられのよ
うに投げつけられ,トロリーバスやバス,車道と自転車道を隔てる柵などがバリ
ケードとして使われ,しかもそれらに火が放たれた。戒厳部隊の進軍には投石な
どによる激しい抵抗が行われ,部隊のなかに死傷者,ことに多数の負傷者が出た。
戒厳部隊はやむなく催涙弾,さらには銃弾を発砲することで,定められた時間内
に天安門広場に集結するよう,強行突破の措置をとった。その過程で民衆の側に
もかなりの数の死傷者が出た。街路上で空に向けて発砲して警告した際に,周囲
のビルに実弾が当たり,無辜の民が死傷するといった事態も発生した。また逆に
ビルの上から鹵獲した銃などで戒厳部隊の兵士にたいして狙撃がなされることも
あった。

 このような激しい戦闘が西長安街で展開されているとの情報は,天安門広場に
居すわる学生たちにも伝わってきた。柴玲ら学生運動指導者は,戒厳部隊の全面
進駐を前にして,無用な抵抗をしても勝ち目がないことは明白なので,広場での
武器を放棄して無抵抗のすわり込みを堅持することを主張した。

 一方,当時広場でハンストをして居残っていた4人の知識人(劉暁波,周舵,
高新,侯徳健)は,学生たちに武器を放棄させ,広場から撤退すべきことで意見
が一致し,周舵と侯徳健が戒厳部隊の現場の指揮官との交渉に当たり,劉暁波ら
が広場の学生たちへの説得に当たった。この時すでに広場周囲は戒厳部隊によっ
て完全に包囲された状況下にあったので,実際のところ他に選択の余地はなかっ
た。戒厳部隊は広場東南の方角に学生の逃げ道を当初から用意しており,そこか
ら学生たちはインターナショナルを歌いながら隊列を組んで退去していった。い
わゆる天安門広場での虐殺とか,テントで寝ていた学生たちが戦車にひき殺され
た,と当時のマスコミで騒がれたような事態は発生しなかった。事件はこれで落
着したわけではないが,ひとまずここまでで概況説明を終える。そして以下,本
論で89年天安門事件として問題にする時には,6月初旬の戒厳部隊が天安門広場
に向けて進軍し,いわゆる暴乱を平定する期間に限定し,問題を「虐殺」の有無
ということに絞って検討することにする。

3)中国共産党政権崩壊説の破綻

 事件が世界各国のマスコミ,とりわけ多数のテレビ局のカメラが映像を記録す
る中で発生したため,リアルタイムに近い形で日本人の一般家庭のテレビに北京
の天安門広場から東長安街一帯の騒然とした光景が映し出された。

 中国の軍隊は人民解放軍と称する通り,人民の軍隊であると考えられており,
それが民衆と対立し,発砲し,死者を出すといった事態の発生をまったく予期し
ていなかった多くの日本人(その中には筆者も含まれる)はテレビを見て,驚き,
悲しみ,憤るしかなかった。一体どうしてこんなことになったのか。軍隊の投
入以外に他に採るべき措置はなかったのか。人民の軍隊としての人民解放軍の伝
統はどこに行ってしまったのか。当時はそんな素朴な疑問が次々と湧くとともに,
毎日,食い入るように放映されるニュース映像を追いかけたものである。

 しかし中国を研究する者として,ニュース報道を後追いするだけでは不充分で
あり,なぜ自分にとって理解不能な事態が生じたのか,その原因を究明すべく,
筆者は他に抱えていた仕事を一切放棄して,矢吹晋,白石和良,中村公省ら各氏
との共同研究に参加した。まずは多方面からの協力を得て資料の蒐集を行い,こ
とに天安門広場で配付された学生側の資料等を数多く蒐集し,同時に当局側の資
料も丹念に集め,またテレビ映像なども分析対象に入れて真相把握に努めた。そ
れらを整理,分析,翻訳して資料集『チャイナ・クライシス重要文献』全3巻を
作成,89年の段階に蒼蒼社から出版した。さらにそれらをもとに論文集『天安門
事件の真相』(上下巻,矢吹晋編)を同じく蒼蒼社から90年6月と9月に出版し,
筆者は学生の対話要求運動の顛末についての分析を分担した。さらに今後,可能
なかぎり原資料を利用して,より深い研究が進められるようにするためのツール
として『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』という,典拠を明記した大事記を
編集し,やはり蒼蒼社から90年8月に出版した。

 それらの作業をして得られた筆者のこの事件にたいする認識は,日本の世間一
般で通用している同事件への見解とはかなり異なっていた。例えば『天安門事件
の真相』下巻に収めた拙論「89年対話要求運動顛末記」の結論では,学生の運動
を平和的で理性的なものと高く評価する通常の見解とはまったく異なった評価を
下さざるを得なかった。同様に,本論で問題とする天安門広場での「虐殺」とい
う表現は,事実に合わないし,そのような見解に囚われているかぎり,その後の
中国情勢も正しく理解できない,という見解に達していた。

 しかし日本の言論界を広く支配している同事件についての観点はそのようなも
のではない。早くも89年8月21日に発行された中嶋嶺雄著『中国の悲劇』(講談
社)は「猛り狂った戒厳軍兵士は鎮圧の手をそるめるどころかさらに凶暴化し,
ついに五時三十分,天安門広場に学生たちが築いた『民主の女神』が打ち倒され,
その周辺に最後まで残っていた勇敢な学生たちも十数台の機関銃の銃火を浴びて
一斉に殺害された。こうして五十日間にわたって高揚した『人民の波』は完全に
平定されたが,天安門広場には大量の血が流れ,無差別に銃撃された学生や市民
の怒声と悲鳴が四方八方にこだまし,消えていったのであった」(同書9頁)と
怒りの声をあげ,「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹
していた民主化要求の学生や市民を,人民の軍隊であるべき人民解放軍が無差別
的に銃撃し装甲車や戦車が逃げまどう学生や市民をひき殺すという暴挙は,ヒト
ラーやスターリンさえなし得なかったことである」(同10頁)と厳しく中国当局
者を糾弾している。そして「中国当局の状況認識はあまりに時代錯誤的であった
がゆえに当面の鎮圧には成功し,『血の日曜日』の悲劇を招いたのであるが,や
がていつの日か反・革命が再びより大きな権力批判,本物の反・革命となって,
中国共産党の独裁体制を揺るがし,中国社会を大きく変革してゆくことになると
思われる」(同39頁)と中国の現政権の崩壊を予測した。

 小島朋之著『さまよえる中国』時事通信社(89年11月10日発行)も「今回の事
態は革命の近代史の系譜を逆転させる起点の一つであるかもしれない。一九〇五
年のロシアの“血の日曜日”事件が十二年後の社会主義・一党独裁体制をもたら
す起点であったように,今回の事態はその転覆をもたらす起点となり,第二の“
血の日曜日”事件として記憶されるかもしれない」(40頁)とか「今回の虐殺事
件は,わずか建国四十年で民衆の声に聞く耳を持てない“金属疲労”状態に陥っ
た社会主義体制崩壊の起点として記憶されるかもしれない。」(同42頁)と,同
様にこの事件を中国社会主義体制の崩壊の第一歩である,という認識を示した。

 中嶋嶺雄・小島朋之に代表される論調は,89年の六・四事件の血の弾圧を起点
に,中国共産党の一党独裁体制がいずれ打倒され,中国の社会主義体制が崩壊し
て行くという説であり,東欧やソ連の社会主義政権が現実に崩壊したのに続き,
中国も同じ運命をたどるという点で,いわゆる西側世界ではかなり通俗化してい
る説である。

 しかしはたして中国の現実はその予測のように進んでいるのであろうか。

 93年9月16日に国連貿易開発会議(UNCTAD)が発表した「貿易と開発に
関する報告書(一九九三年版)」(『朝日新聞』9月16日夕刊に要約されたもの)
では「市場経済を志向する開発途上国の経済開発は時間をかけて進めれば成果を
あげるが,東欧の旧社会主義諸国のように結果を急ぐショック療法では効果が期
待できない,と指摘した。それによると,東アジアと東南アジアで経済的成功を
おさめた国では,経済成長に大役を果たした企業と輸出に対する政府の支援が,
政策ショックを与えないように秩序よく行われた。成功例のひとつの中国では,
ショック療法を避けて改革が徐々に行われ,中央計画経済と市場経済,国有企業
と市場志向の小規模企業が補い合うよううまく活用したと分析している。」とし
て,東欧・ソ連の現状への否定的見解と引き換えに,中国の経済建設を成功例と
して高く評価している。

 91年から始まった中国の第八次五ヵ年計画では当初,GNPを平均年6%増加
させるよう定めていたが,92年10月の中共第一四回全国代表大会での江沢民報告
では,8〜9%の増加は可能とされ,それを目標に掲げて前進するよう提起され
た。89年の六・四以降,出現した多くの西側研究者の予測に反して,中国経済は,
アメリカや西欧諸国が中心となって発動した経済制裁措置をものともせず,非
常な活況を呈している。それどころか大統領選挙戦において「人権問題」を掲げ
て中国非難の急先鋒の姿勢を示していたアメリカのクリントン大統領ですら,93
年11月にシアトルで開かれたAPEC(東アジア・太平洋経済協力会議)の首脳
会議に出席した中国の江沢民国家主席との会談を行うという様変わりである。ア
メリカが中心となって発動した対中「経済制裁」措置は完全に破綻した。

 中国国内の政治支配体制を見ても,江沢民を中核とする第三世代の集団指導体
制は,89年以降のさまざまな難局を乗り越え,安定と団結を示しており,いわゆ
る民主化勢力が当面の打倒目標としている李鵬首相の地位も安泰である。

 80年代に急速に展開された改革・開放政策の下で,「一切向銭見」(すべては
金次第)の傾向や,先進国崇拝の風潮が強まり,海外への脱出願望や,閉塞情況
にある都市青年の憤りを描いた映画や文学が多く見られた。それらには改革・開
放政策の急激な進展のなかで価値判断の基準を見失い,混迷する中国人の精神状
態が反映されていた。

 天安門事件以降,政治・思想面での引締め政策が実施され,精神文明建設の重
要性が再度強調され,「国情」教育や中国式社会主義建設の意義や中国革命史の
教育が行われた。いわゆる「民主化運動」を組織した人々は,海外ではさまざま
な論陣をはっているが,それらの主張が中国国内に強い影響を及ぼしているとは
見受けられないし,地下レベルで非合法的に広まっているとも思われない。東欧
やソ連の社会主義体制は相継いで崩壊したが,それが衝撃として中国に伝わるこ
とはなく,中国では比較的客観的・冷静に東欧・ソ連の変貌ぶりを見ており,ソ
連型社会主義体制が崩壊したことをもって,中国の前途を悲観する傾向は,中国
国内では主流を占めていない。この点,映画は大衆の心理をよく反映するもので
あり,例えば,批判精神旺盛な監督として名高い黄建新監督の新作『站直luo (口
+羅),別pa(足+八)下(「這いつくばっていないで,真っ直ぐ立つんだ」,日本
の映画題名は「青島アパートの夏」)』(92年11月)に,90年代の中国の民衆の
心情がよく反映されている。

 これらの事実から,次のようにことがいえる。

 89年6月4日の中国政府による戒厳部隊を動員してのいわゆる「天安門の暴乱
鎮圧事件」は,その後のベルリンの壁崩壊のきっかけになったし,それ以降,東
欧のいわゆる社会主義政権はドミノ式に崩壊し,総本山ともいえるソ連も結局は
崩壊し,また93年に入りロシアではエリツィン政権の下,旧共産党勢力への武
力弾圧まで行われた。いわばソ連型の社会主義体制は確かに崩壊し,それぞれ明
確な前途を見いだせないまま,混迷した情況にあるが,それら東欧,旧ソ連の「
社会主義陣営」の崩壊から,中国が衝撃を受け,動揺し,混迷しているとはいえ
ず,アメリカのいわゆる「人権外交」の揺さぶりにも動ずることなく,自主独立
の道を歩んでいる。広大な市場としての可能性を秘めている中国経済の目ざまし
い発展ぶりは,低迷する世界経済の牽引車的役割を果たしており,二十一世紀は
東アジア,なかでも中国が大きな役割を果たすであろう,との予測がさまざまな
方面から論じられている。

 つまり中嶋嶺雄や小島朋之に代表される,89年天安門事件を契機に社会主義政
権が崩壊する,という予測が現実化する兆しはまったく現れていない。89年天安
門事件を契機として,社会主義中国と中国共産党の一党独裁体制は崩壊するとの
説は,破綻を来したと断定せざるを得ない。

 ではなぜそのような誤った予測がなされたのか。89年天安門事件そのものにた
いする見方,事実認識に根本的な誤りがあることが一つの大きな要因である,と
筆者は考える。

4)「虐殺」と称すべき事態が発生したのか

 前述した通り中嶋嶺雄は『中国の悲劇』(10頁)で「身に寸鉄を帯びず全く無
抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹していた民主化要求の学生や市民を,人民の
軍隊であるべき人民解放軍が無差別的に銃撃し,装甲車や戦車が逃げまどう学生
や市民をひき殺すという暴挙は,ヒトラーやスターリンさえなし得なかったこと」
として,他に類例を見ない残虐行為であり「民主化を要求して整然と座り込ん
でいた学生や市民を,一方的に殺戮する行為」という表現を用いて,中国当局の
措置を厳しく糾弾している。

 しかし結論を先に述べれば,実際には89年6月の北京では「残虐な殺戮」とか
「虐殺」と称すべき事態は発生しなかった。この点について天安門広場での情況
と,その他の場所における情況を検証してみることにする。

A)天安門広場について

 6月4日未明の天安門広場における戒厳軍による学生たちの強制排除(当局側
は清場と称している)過程において,当時,巷間で流された「虐殺」情報を中国
当局は直ちに否定した。89年6月6日に国務院スポークスマンの袁木などが中南
海で行った記者会見において,戒厳部隊某部政治部主任の張工(彼は当日,現場
にいた)が発言し,6月4日の4時半から5時半,広場を正常化させる過程で,
学生や大衆を一人も殺したことはない,と言明している。

 当時,日本のテレビなどの生々しい映像や現地リポートから衝撃を受けていた
われわれが,この当局側の発表に対してにわかに信じがたい気持ちであったこと
は事実だが,早くはアメリカのABCテレビが6月27日夜10時の番組で,天安門
広場でのできごとを撮影したビデオフィルムを点検した限りでは「いわゆる大虐
殺の事実はなかった」と報道している(『天安門事件の真相』上巻 212頁,中江
要介前掲書 196頁)。アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサー
チ・ディレクターであるロビン・マンローは9月23日の香港『サウス・チャイナ
・モーニング・ポスト』紙に,自分自身が広場に最後まで居残り,そして学生と
ともに撤退していった様子を冷静に描写している。「そこにはパニックを示すよ
うなものはなく,なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなか
った」(『チャイナクライシス重要文献』第3巻 173頁)と。

 広場でのハンストに加わった4人の知識人の一人である侯徳健は8月17日に新
華社記者のインタビューに答えるなかで「一人の学生も,一人の市民も,また一
人の解放軍兵士も殺されたものは目撃しなかったし,戦車や装甲車が人の群れに
突っ込んで行ったのは見ていない」(『チャイナ・クライシス重要文献』3巻 1
67頁)と証言している。また同じくハンストをして居残っていた劉暁波も,「私
は戒厳部隊が群衆に向けて発砲するのを見てはいない。彼らが発砲したのは,空
に向けてか,スピーカーに向けてだけだった。また,私は一人の死者も見なかっ
たし,まして天安門広場で流血が河を成したなぞということを見ていない」(同
じく重要文献3巻 169頁)と語った。侯徳健,劉暁波の証言を報道したのがいず
れも『人民日報』など中国の国営報道機関であるために,西側マスコミ,あるい
は「民主化運動」を支援する人々,そして中国研究者の大半から,検討するに値
しないものであるかのように扱われ,無視された。

 日本でも89年12月4日の『読売新聞』夕刊において矢吹晋が,天安門広場にお
ける「虐殺」なるものが幻である,ということを明確に指摘した。さらに彼は90
年6月に出版された『天安門事件の真相』上巻(蒼蒼社)で,さまざまな資料を
元に,戒厳部隊の暴乱鎮圧過程を詳細に再現し,戒厳部隊の側の被害情況をも紹
介するとともに,「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航,銃声か
ら推察して,天安門広場の整頓過程において,大量の「虐殺」が生じたものと,
多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は
学生側からのものが多い」(217頁)としたうえで,それらが信憑性に欠けるも
のであることを指摘した。同じく『天安門事件の真相』下巻の白石和良論文「
『デマ』と『錯覚』の『天安門事件』」は実に詳細にわたって当時流された「デ
マや噂の真相」を解明した。筆者自身も『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』
(蒼蒼社)を編纂する過程において,同様な観点に立って日誌を作成した。また
『天安門事件の真相』下巻に訳載されたロビン・マンローの論文も,天安門広場
では虐殺はなかった,ということを立証している。ただし彼は広場以外,ことに
北京の西側での「虐殺」に注目するよう問題提起している。この点は後述するこ
とにして,天安門広場での「虐殺」なるものが存在しないことは,事件発生後の
一周年前にすでにさまざまな人から明白に主張されていたにも関わらず,その主
張が正論として社会的に受け入れられることはなかった。

 事件の四周年にあたる93年6月3日9時30分,NHK総合テレビ「クローズア
ップ現代」は,当時,天安門広場に最後まで残って撮影を続けていたスペイン国
営放送のレスト・レポ記者の映像と彼へのインタビュー,当時,広場に残って学
生の平和撤退のために奮闘したシンガーソングライター侯徳健へのインタビュー
からなる番組を作成し,放映した。これによって天安門広場での虐殺の有無につ
いて決着が付けられたといえる。この時のインタビュー記事の内容は,取材にあ
たった加藤青延NHK北京支局長の解説とともに『蒼蒼』(蒼蒼社発行)51〜52
号に掲載されている。レスト・レポ記者が撮影した映像では,劉暁波が広場の労
働者が保持していたライフル銃を打ち壊す場面が非常に印象的である。

 問題は89年の段階ですでに判明していた事実が,4年後にようやく世間一般に
認められた,ということである。加藤青延らNHK側のスタッフが中国側の映像
は一切利用せず,西側映像のみに頼って「空白の3時間」の再現に迫った結果,
広場での虐殺はなかったと,日本の視聴者を納得させることができたのであるが,
西側映像でなければ真相だと見なさない,中国当局の公式発表にたいする不信
感が日本人の中に根強くあることは問題であると思う。

 広場での「虐殺」がなかったことについては,映像情報だけでなく,この民主
化運動の当事者たちの回想録でも確認できる。前述した劉暁波の『末日倖存的独
白 関於我和六・四』(台北 92年 時報出版公司)や,高新の『卑微与輝煌 
一個「六四」受難者的獄中札記』(台北 91年 聯経出版事業公司)がそれであ
る。彼らは前述した広場でハンストを行ったインテリ4人のメンバーであるが,
その証言は自由の身になってからの発言であり,いずれも台北で出版されており,
中国当局への配慮などまったく必要のない条件で,自分の思うがままに書いた
文章である。

 高新の回想では,広場には当時,こん棒,鉄棒,チェーン,銃弾の込められた
ライフル1丁,機関銃1丁があり,その銃口は人民大会堂東門の兵士たちに向け
られていた,と証言している(高新 前掲書 325頁)。学生,労働者の側に一部
の武器が奪われていたことは彼らの証言からも判るし,この他にもそれを立証す
る写真や映像資料がいろいろ存在する。

 つまり,もしこれらの武器が実際に広場で使用されたら,双方で撃ち合いが始
まり,広場で流血の事態が発生した可能性は大きい。劉暁波らが学生や労働者に
武器の放棄を説得し,侯徳健らが戒厳軍当局と交渉し,学生たちを広場東南の方
角から撤退させることで合意が成立したため,平穏里に学生たちが広場から撤退
していったのである。したがって彼ら4人の知識人が,最後の時点で貴重な役割
を果たしたことは事実である。

 なお注目すべきは,戒厳部隊は天安門広場の包囲網を作るが,広場東南の側に
学生の逃げ道となるよう,そこにだけ部隊を配置していなかったことである。後
述する西長安街での,発砲をも含む強行突破による天安門広場への進駐や,東長
安街周辺での群衆にたいする威嚇射撃を用いた強制排除は,指定された時間内に
天安門広場の周囲を制圧し,同広場を北,東,西方向から圧倒的多数の部隊を一
挙に繰り出し,居残る学生たちを威圧し,彼らを強制的に(ただし流血の事態を
避けるようにして)絞り出す形で東南の方角に撤退させようとした,計画的な作
戦であった,ということである。この作戦の詳細については『天安門事件の真相』
上巻の矢吹晋の分析に詳しく載っている。

 天安門広場での「虐殺」が存在しないことは,以上で明白になったと言える。
では他の場所で発生した死傷者の存在をどう見るべきであろうか。

B)西長安街での衝突

 当時の戒厳部隊の主力は西長安街からやって来た。これは西側報道陣の予期に
反したことで,彼らはほとんど東長安街にカメラやリポーターを集結させていた。
そのため西長安街での衝突を再現する映像は,中国当局側が撮影した記録しか
ない。筆者がこれまでに見た中国当局側が作成したビデオ映像は『北京風波紀実』
『驚天動魂的博闘』『北京風波五十天』であるが,いずれも類似した内容であり,
中国当局の特定の意図の下に編集された宣伝品であることは間違いない。ただし
だからといってそれらの映像に価値はない,と見なすことはできない。当日の実
際に起こった出来事の一部分が記録されていることには変わりないのであり,西
側カメラマンの撮影した映像と同様に貴重な歴史資料と見なすべきである。中国
側は宣伝ビデオを作成するにあたって,西側カメラマンの撮影した映像をも積極
的に利用している。中国側の撮影したものは使いたくない,見たくない,信じた
くないという心情は,客観的に中国を分析しようとする信念の希薄さの表明以外
の何者でもない。

 中国側が撮影した西長安街における映像には,群衆が武装警官や戒厳部隊に投
石している場面や,バス,トロリーバスなどをバリケードにして戒厳部隊の進軍
を妨げている場面,さらにはそれらに火を放ち,黒炎が猛烈な勢いで舞い上がっ
ている場面,動けなくなった軍用トラック目掛けて群衆が雨あられのように投石
を繰り返し,運転手の生命さえ危ぶまれる場面(中国語のナレーションでは運転
席にいた2名が殺されたと述べている),放送局に群衆が押しかけ,それを武装
警官がこん棒を振り回して排除し,門の外に押し返す場面などが記録されており,
中嶋嶺雄が述べるような「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力」な民衆像と
は程遠く,戒厳部隊の進軍にたいしてさまざまな手段を用いて抵抗する群衆の姿
が映っている。

 中でも注目すべきは,群衆(暴徒と称すべきであろう)が装甲車を占拠し,周
囲に発砲している場面が,ビルの高所から撮影されていることである。群衆が装
甲車を占拠して乗り回したことは90年2月に香港の広角鏡出版社から発行された
写真集『北京風波真相』の 113頁にも鮮明な写真で掲載されている。それによる
と乗っ取られた装甲車の番号は 422号,場所は復興門立体橋一帯である。死傷者
の一部分がこれらの発砲によっても発生した可能性は排除できない。もちろん,
戒厳部隊が群衆の抵抗に耐えかねて発砲したことによって死傷者が出たことは,
当局側が発行した各種回想録の文章でも認めている。戒厳部隊に随行した撮影記
者李靖は「レンズに映った長安街」(解放軍文芸出版社89年10月発行『戒厳一日』
下巻所収)の 179頁で,「兵士は発砲して少数の暴徒を射殺した」と明確に戒厳
部隊の兵士による射殺の事実を記録している。

 当局側は戒厳部隊の任務執行にあたって,群衆から激しい抵抗にあい,被害が
続出したため,止むなく発砲して警告し,あるいは公然と戒厳部隊への攻撃を仕
掛ける者については暴徒と見なして射殺し,天安門広場へ進軍する道を切り開い
ていった。その過程で死傷者が発生したのである。

 このような当局側の見解を裏付ける情報が,実は天安門広場の学生側情報にも
記録されている。

 劉暁波の前掲書「末日倖存者的独白」 224頁以下に当時の天安門広場の実況録
音が再現されており,そこには柴玲が広場統一指揮部の名義で発する「第5号最
厳令の命令」が紹介されている。柴玲は以下の通り発言する。

 「こん棒,瓶,煉瓦,さらには火炎瓶(原文は燃焼弾)を手にしているすべて
の学友諸君は,それらの役たたずの武器を手放してください。みなさん知ってい
ますか。西長安街ではすでに死体が溢れ,血は川のごとく流れています(原文は
屍体遍地,血流成河)。殺され,殴られたのはすべて物を投げた人達です。もし
も個人としてなら,物を投げても構わないかも知れません。けれどひとたびあな
たが物を投げれば,すべての学友たちがみな犠牲になってしまうということを考
えたことがありますか。」

 この柴玲の武器放棄の命令の意味することは,これ以上,戒厳部隊に無益な抵
抗をするな,すれば犠牲者がでる(現に衝突によって死者が出ている),という
ことである。これは前述した中国当局が事件後に『戒厳一日』などの書籍で公表
した,暴徒の抵抗にあったから止むなく発砲をしたとする当局側の見解と符合す
る。

 西長安街で死傷者が多数出たが,その多くは中嶋嶺雄や小島朋之あるいは加々
美光行『現代中国の黎明』15頁で主張しているように「素手に等しい今回の民主
化運動に対して,たとえそれが一〇〇万を越す大規模なものであったにせよ,戦
車や装甲車を繰り出してまで,あれほどの無残な殺戮を加えなければならなかっ
た」とか,中嶋嶺雄の述べるように「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力な市
民・学生」ばかりではなかった。死んだ人には確かに巻き添えを食った一般市民
もいるが,戒厳部隊に攻撃を仕掛けたがために発砲された,当局側からすれば暴
徒の類もいるし,また戒厳部隊自体に死傷者,とくに負傷者が五千人以上と非常
に多く出たことを忘れてはならない。

C)東長安街での水平打ちについて

 西側報道陣は天安門広場に近く,東長安街に面している北京飯店を取材拠点に
していたのが多かった。そのため東長安街周辺での映像は比較的多く収録されて
いるし,テレビなどで衝撃的事件として伝えられたものの多くは,天安門広場周
辺から東長安街一帯の出来事である。

 映像では当初,空中に向けて銃弾が発射され,ついで水平射撃に変わった,と
されている。空中を実弾が飛んでいる場面は確かに画面で確認できる。問題はそ
の後の水平射撃である。6月4日未明の段階の東長安街の映像は,銃声と人々の
叫び声の重なる混乱した場面がほとんどで,実際がどうであったのか,筆者には
明確に確認ができなかった。ただ当時の報道などによれば,実弾が自分の周囲を
音を立てて飛んでいった,とか,目の前にいた女性が血だらけになって倒れた,
というリポーターの報告がある。報道関係者に死傷者が出たことも確かである。

 しかし子細に当時のビデオ映像を検討してみると,戒厳部隊の行動は天安門広
場に集結しようとする群衆の強制排除を目的とする威嚇的行動であり,殺傷を目
的とした水平射撃による無差別発砲ではない。ビデオ映像から,一部の兵士が実
弾を発射していることは確認できるが,それはあえてすぐ近くの地面に向けて発
射し,実弾の火花を示威している。ゴム弾ではないぞ,実弾だぞ,当たれば死ぬ
ぞ,と群衆に知らしめ,脅迫しているのである。

 また白昼(6月4日午前10時前後か),戒厳部隊の攻撃を受けて群衆が東長安
街を東方向に逃げまどう場面が撮影されている。その時は射撃音が非常に多く聞
こえるが,どうやら空砲の可能性が高い。もしも水平射撃であれほど実弾を発射
したとすれば,もっと多くの人間が東長安街で相継いで倒れる映像が映っている
はずである。地面に倒れている人の映像も数人かある。しかしそれらの人も,実
は死んでいるのではなく,銃弾から身を守ろうとして,うつ伏せになっているの
であって,必ずしも撃たれて死んだ人ではない。このことはビデオ画面を詳細に
見ると,うつ伏せになっている彼らが戒厳部隊の動向を知ろうと体を動かす場面
があることで確認できる。その場面では一人が確かに負傷するが,死んではいず,
間もなく周囲から救いの手が差し伸べられ,自転車つきリヤカーに載せられて運
び出されてゆく(以上の場面はNHK総合テレビのニュース番組のビデオから)。

 西側映像に映った東長安街での出来事でも,軍隊が狂気の沙汰で発砲している
のではなく,6月4日未明の段階では,天安門広場での学生たちを強制排除する
ために広場周囲の群衆を強制的に排除する目的で威嚇射撃(空砲,ゴム弾,そし
て実弾をも含む)が行われた。その後,広場からの学生排除が終わった後でも,
群衆が再び広場への再結集を企て,小型バスに火を点けて戒厳部隊めがけて突入
させるような抵抗も行った。それら群衆の報復措置にたいする対抗措置として,
威嚇射撃を含む排除活動が行われたのである。

 長安街以外の場所での発砲についても本来は検討を加えるべきなのであろうが,
映像資料が不足しているので,省略する。

 以上のような理由から,天安門広場以外の場所では,戒厳部隊が発砲したこと
により,死傷者が発生したことは事実だが,発砲は限定された条件の下で行われ
ているのであって,虐殺とか殺戮といった表現を用いることは妥当ではない,と
筆者は考える。

D)死者の数について

 この事件で北京での死者の数は何人になるのか,事件直後には中国紅十字関係
者の話として二千六百人説が流されたり,五千人以上とか,一万人以上だとかさ
まざまな数字が飛び交った。6月6日に国務院スポークスマン袁木は事態の掌握
がまだ完全にできていないので不完全な統計であるとして,軍側負傷者は五千人
以上,学生・市民側は二千人以上,死者は双方合わせて三百人程度で,学生の死
者は二十三人という数字を示した。その後、6月30日に北京市長陳希同が行った
情況報告では,軍・警察・公安側の負傷者は六千人以上,軍側死者は数十名。一
方,学生・市民側の負傷者は三千人以上,死者は学生三十六人を含む二百余人と
いう数が公表された。いずれの報告も軍側の負傷者が民間側の倍である,という
事実は注目すべきことである。89年9月17日に李鵬首相が伊東正義訪中団に伝
えた死者の数は,双方合わせて三百十九人という(『天安門事件の真相』上巻
222頁)。

 この三百十九人という数値を絶対的に正しいとする根拠は見当たらないが,中
国政府を代表して外国の代表団に具体的数字を出して説明しているのである以上,
それなりの根拠があって提示していると見るのが常識ではなかろうか。筆者が北
京理工大学の関係者(彼は当日、アメリカにおり,帰国後,説明を受けたとのこ
とだが)から聞いた話では,北京理工大学の学生は二名死んでおり,死んだ場所
も即座に紹介してくれた。この例から判断するに,少なくとも三十六名の学生の
死者については,どの大学の学生がどこで,どのようにして死んだのか,当局側
は具体的に把握している模様である。同様に,三百十九名の死者について,当局
側はそれぞれ具体的な死亡状況を把握しているものと思われる。

 89年6月の段階でアメリカのABCがビデオを再チェックして千人を越えるこ
とはなかろう,との判断を下しているし,中国紅十字関係者の二千六百人説なる
ものは「広場での虐殺」を前提とした推定であるので,天安門広場での死者がゼ
ロとなれば,他の地域での衝突による死者に絞られるので,三百十九人説は信憑
性の高いものと思われる。死傷者の数は永遠に判らない,というような不可知論
的対応をとることは,研究者としての怠惰な言い逃れに過ぎない。三百十九人説
が妥当でないとするなら,具体的な根拠を挙げて主張すべきで,ただ感覚的に無
数の労働者や市民が殺された,と述べるのも,何の反論にもなっていない。

5)戒厳部隊の対立説について

 戒厳令が発布される前から,学生側からは軍内部に学生の主張に同情する向き
がある,との宣伝がなされた。ことに5月20日に北京市の一部地域に戒厳令が発
布された後,葉飛,張愛萍ら7名の軍元老が軍隊の北京入城を控えるよう呼びか
ける書簡を出した,とするビラがまかれ,軍内部で戒厳令の実施に抵抗する傾向
が強くあるような印象を学生側は意図的に醸しだした。おそらく党内,さらには
軍内にそのような見解を持つ人々が存在したことは事実であろう。しかし北京軍
区を始め,主要な党,軍,地方政府,機関がすべて戒厳令支持を表明した時点で,
すでに軍内部での戒厳令執行への抵抗というのは,学生側の夢物語に過ぎないし
ろものになってしまった。

 にもかかわらず6月4日以降,盛んに日本を含む西側のマスコミは戒厳軍の動
きについて,軍隊内部での武力衝突が発生した,北京の南郊の南苑付近で砲撃音
が聞こえた,というような情報がまことしやかに流された。また解放軍の派閥対
立について,軍事問題に詳しいとする研究者がテレビに出演してあれこれ解説を
加えていたが,それらの解説を聞いていると,中国があたかも軍閥混戦時代に舞
い戻ったかのような印象を一般人に与えるものであった。中国の軍隊が共産党の
強固な指導下にある,という基本的常識をまったく無視した解説を中国問題の専
門家が平然と行っていることに,筆者は信じがたい気持ちでテレビを見ていた。

 戒厳部隊の内部対立という情報の発信源はアメリカの情報筋であったが,時間
の経過とともに,どうやら軍隊内部の対立はなさそうだ,という方向に大方のマ
スコミや研究者の見解は固まっていった。

 しかるに事件から9ヶ月も過ぎた90年3月の段階にいたっても,加々美光行は
学陽書房発行の『現代中国の黎明』(25頁)で「六・四虐殺事件の前後には,い
ずれも北京軍区に所属する部隊である二七軍と三八軍との間に対立があり,相互
の交戦があったと伝える情報もあった。私は当時,そうした情報にはある程度の
信憑性があると感じ,少なくとも軍内部に対立矛盾があるとの見方を示したが,
この点は現在も変える必要はないと思っている」という見解に固執している。た
だしそう主張する具体的根拠を彼は一向に明示せず,さまざまな憶測によっての
み文章を書いている。

 現実には6月4日のすぐ後の6月9日,トウ小平は首都戒厳部隊の軍団以上の
幹部を接見している。なおこの日に天安広場で国旗を再度掲揚する儀式が行われ
ているので,基本的に6月9日をもって北京市の暴乱の平定が完了し,それを慰
労する意味でトウ小平の会見があった,と見るべきであろう。

 6月9日のトウ小平の講話はこの事件の本質を研究する上で,非常に重要な内
容を含んでいるが,当時の西側マスコミはむしろ戒厳部隊を慰労したトウ小平の
発言を捉え,彼が事態を掌握できていないかのように報道したし,加々美を始め
とする多くの研究者がこの時のトウ小平講話の持つ意味を重視しているとは言え
ない。

 トウ小平は戒厳部隊の幹部を前にして,次のような話をする。

「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものである。これは国際的大気候と中国
自身の小気候によって決定づけられたものであり,必ずやって来るものであり,
人々の意思では変えることのできないものであり,ただ遅いか早いか,大きいか
小さいかの問題でしかない。しかも現在やって来たことは,われわれにとってよ
り有利なことである。最も有利なことは,われわれには多くの古参同志が健在で
あり,彼らは多くの風波を体験しており,事態の利害関係を理解しており,彼ら
は暴乱にたいして断固たる行動を採ることを支持していることである。一部の同
志にはまだ理解しないものもいるが,最終的には理解するはずだし,中央のこの
決定を支持するはずである」(『求是』89年13期)。さらに今回の事件の処理が
難しかったのは「一撮みの悪人があれほど多くの青年学生やそれを取り巻いて見
守る群衆の中に紛れ込んでおり,敵と味方の境目が明確に区別のつかない時があ
り,そのためわれわれは採るべき行動に着手することが難しかったことである。
もしもわが党の多くの古参党員同志の支持がなかったなら,事件の性質すら確定
することが出来なかったであろう。一部の同志は問題の性質を理解せず,ただ単
純に大衆に対処する問題である,と見なしたが,実際には先方には是非のはっき
りしない群衆だけでなく,一群の造反派と大量の社会のクズも存在したのである。
彼らはわれわれの国家を転覆しようとし,われわれの党を転覆しようとしている。
これが問題の実質であ。この根本問題を理解しないと,事態の性質ははっきりし
ない」。そして今回の事件の核心は「共産党を打倒し,社会主義制度を覆すもの
である」と規定した。

 そして善人と悪人が混在しているなかで暴乱平定を行わねばならない,という
対処が非常に難しい問題にたいして,「今回の事件の処理はわが軍隊にとって深
刻な政治的試練であったが,実践が証明していることは,わが解放軍は試験に合
格したということである。もし戦車で押しつぶしでもすれば,全国に是非がはっ
きりしない事態を生じさせてしまったにちがいない。だから私は解放軍の将兵諸
君が今回のような態度で暴乱事件に対処したことに感謝したい。〔将兵の〕損失
は心痛むものではあるが,人民の支持をかち取ることができ,是非のはっきりし
ていない人々の観点を改めさせることができる。解放軍とは一体どんな人々なの
か,天安門を血で洗うというようなことがあったのかどうか,流血したのは結局
のところ誰なのか,ということを皆に見せるがいい〔ここでトウ小平は当時すで
に巷間で流布していた「天安門広場の虐殺」説への反論を行っている〕。この問
題をハッキリさせれば,われわれは主導権をかち取ることになる。多くの同志を
犠牲にしたことは非常に心の痛むことであるが,客観的に事件の過程を分析すれ
ば,解放軍が人民の子弟兵であるということを,人々は承認せざるを得ないであ
ろう」として,戒厳部隊が暴乱平定にあたって自制的対応をとり,その結果とし
て軍に多数の死傷者を出してしまったことの積極面を述べている。戒厳部隊への
慰問会見であるので,民衆の側についての死傷者についての言及はまったくない。
そして今後は二度と他人に武器を奪われることがないようにすべきである,との
教訓を指摘している。

 トウ小平のこの講話を分析する限り,戒厳部隊に対立が存在しなかったことは
明白であり,戒厳部隊は事件を平定するにあたって,可能な限り武器の使用を控
え,自制的対応をとったこと,その結果として武装していながら民間の倍以上も
の多くの負傷者や死者を解放軍側に出してしまったことが伺える。

 もし仮に加々美の見解が成り立つほど,当時,戒厳部隊内部の対立が深刻なも
のであったなら,そもそもトウ小平が戒厳部隊幹部を接見することすら実現でき
なかったであろう。また中央軍事委員会主席としてのトウ小平がまったくでたら
めな講話をしていることになり,軍隊を掌握できていないことを意味する。トウ
小平は自己の主張する通り,中央軍事委員会主席の地位をその後,江沢民に譲り
渡したという事実は,彼が軍隊を掌握していたことを示すものであり,加々美の
主張が根拠のないものであることを立証している。

 6月4日に広場から学生たちを排除した後も,北京市内はしばらくの間,安定
していなかった。むしろ戒厳部隊の発砲をも含む予期せぬ「鎮圧」ぶりを目の当
たりにして感情的になった一部群衆の,軍隊に対する報復が各所で盛んに行われ
た。この点は国務院スポークスマン袁木が6月6日の記者会見において指摘して
いる。また6月5日,6日に「北京市人民政府および戒厳部隊指揮部の緊急通告
(6〜8号)が,暴徒たちによる殴打,破壊,略奪,焼き打ち,殺人などの破壊
活動が止んでいないことを明示し,市民にそれら犯罪分子の摘発,告発に協力す
るよう呼びかけていることからもわかる。群衆の側からの攻撃があったからこそ,
戒厳部隊や武装警察による摘発や反撃が発生し,戦車の移動など戒厳部隊のさま
ざまな動きが見られたのである。西側報道関係者は6月4日以降,取材行動を極
端に制限されていたので,北京市の東側,建国門外周辺のことしか取材できず,
戒厳部隊の動き全体を正確に把握することはできないまま,さまざまな憶測に基
づいて(というよりもアメリカや香港から発せられた意図的なデマ情報に乗せら
れて)北京からリポートを送っていたのである。実際には戒厳部隊同士の対立は
なかった,と見るのが常識というものである。

6)「民主化」要求運動の本質

 胡耀邦の死をきっかけに始まった学生のいわゆる「民主化運動」には,それが
発生すべき社会的,政治的,思想的根源があったし,それについては今後も研究
課題とすべきであろう。ことに57年の「反右派闘争」の拡大化と,今回の事件関
係者への対処の異同を比較することは興味深い問題である。少なくとも中共中央
は過去の経験から教訓を汲んで,今回の事件を処理するにあたっては,人民内部
の矛盾を拡大解釈して批判の対象を拡大化することを避けるよう慎重に対応して
いるように思われる。いずれ両者の比較をきちんと行ってみたいと考えている。

 それは今後の課題として,今回の学生運動そのものについて言えば,いわゆる
「対話」を要求してハンスト戦術を行った5月中旬ですでに方向性を見失ってい
た。この点については『天安門事件の真相』下巻で「一九八九年春の中国学生運
動−対話要求顛末記」で明らかにしたつもりなので,本論では詳しく論じない。

 拙論を発表した後,項小吉とともに「対話代表団」の主要メンバーであった沈
トウ(丹+彡)の回想録『革命寸前 天安門事件・北京大生の手記』(草思社 
92年)を読み,この運動を担った学生がどのような意識で運動に関わっていたの
かを,かなり明確に知ることができた。沈トウ(丹+彡)のように,一方でアメリ
カへの出国のためのビザ取得申請をしつつ,もう一方で対話要求運動のリーダー
役を務めるという二足の草鞋を穿くような運動では,本当の意味で中国の大地に
根ざしてその民主化実現のために戦っている,という評価はできない。米国行き
に有利な条件作りをするのためのパフォーマンスをしているという側面があると
思わざるを得ない。

 89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分た
ちの要求を実現させるために「ハンスト」という,生命を武器にして相手に譲歩
を迫る方法は,とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に
自分たちの条件を飲ませる方法であって,一種の脅迫である。

 例えば,私自身が体験した日本の1968年〜69年の東京大学における全共闘運動
において,学生側(当時は私もその一人であった)は七項目要求を掲げ大衆団交
を求め,全学バリケードストライキを行ったが,当時,要求した大衆団交の実質
は,対等・平等・民主的な交渉ではなく,一方的に学生側の要求を大学当局に承
認させることであり,大学側に全面屈伏を要求することを意味していた。今回の
北京の学生たちがハンストという非常手段で対話を要求したのも,政府当局に自
分たちの要求を全面的に認めさせようとするものであって,文革期にも行われた
極左行動に他ならない。それを「平和的」「理性的」な行動であった,と持ち上
げるのは,あまりに「お人好し」な評価といえる。

7)思い入れ先行の「研究」の危険性

 確かに六・四はショッキングな出来事であった。とりわけテレビを通じて全世
界に映像を含むさまざまな情報がほぼリアルタイムに流しこまれたので,旧来の
中国像,人民解放軍や中国共産党にたいするイメージ・ダウンを誰もが感じた。
映像情報というものは文字情報と異なって,一過性のものであり,印象として人
々の脳裏に焼き付くと,その呪縛からなかなか抜け出せないものである。とりわ
けテレビ映像は一日に何回も同じ映像および音声情報を繰り返し放映するので,
知らず知らずのうちに人々の脳裏に刷り込まれてしまい,安易にそれを信じ込ん
でしまう。映像情報はたいへん魅力あるものだが,もう一方では非常に危険なも
のとなりうることをよく知っておく必要がある。そのような性質を持った,しか
もショッキングな情報が,突如として89年6月にわれわれの世界に飛び込んでき
たので,われわれの中国革命像や人民解放軍に持っていたイメージと,六・四の
軍隊の行動を合理的に理解することができない事態が生じたのは当然のことと思
われる。

 しかし印象で事件を語ってはいけない。ましてや中国を研究対象とする人は,
客観的・総合的に事態を分析する必要がある。「民主化」を要求した学生や知識
人の主張に耳を傾ける必要もあるが,同時に,彼らの発言の背後にあるものをも
読み取るしたたかさも必要であって,彼らが掲げ,主張するスローガンや発言の,
表面的なものだけに依拠することはできない。

 とりわけ今回の事件に関連して書かれた日本の中国研究者の各種書籍に見られ
る傾向は,当局側の言動や発表した資料(公開・未公開を問わず)を分析・検討
する作業を怠り,意図的に無視し,デマ扱いする対応が見受けられることである。
前述したトウ小平の戒厳部隊幹部と会見した際の講話のような,第一級の公開資
料を分析することを放棄する,あるいは表面的な分析しかせず,安直な批判で片
づける,という傾向は問題である。当局側の発言を何ら分析することなしに10
0%鵜呑みにすることが正しくないのと同様に,それに充分な分析も加えず無視
するのは研究者として失格である。

 裏付けも定かでない伝聞情報を恰も真実であるかのごとく扱うことは,マスコ
ミがよく犯す過ちであるが,同様なことを研究者が行って,しかもその後,誤っ
た判断をしたことが明白になっても,自説に固執し,改めようとしないことは,
研究者として恥ずべきことであり,過去の過ちに固執せず,誤った判断をした原
因を究明し,是正する姿勢がぜひとも要求される。89年6月の事件を契機に社会
主義中国の崩壊を予測した研究者は,その後の中国の経済発展を整合的に説明す
ることができず,政治面での改革を棚上げしたまま,ただ経済面での改革・開放
を推進している,と述べて現状分析をしているつもりでいるようだが,それでは
本質的解明にはならない。もし本当に民心に反した血の弾圧が行われたのであれ
ば,民衆の怨恨は長いこと深く残り,さまざまな形でのサボタージュが行われ,
経済発展の足を引っ張ることは間違いない。現実にはそのような事態は発生して
いない。93年12月に北京を訪れ,学生運動のリーダーであったウルケシの出身大
学である北京師範大学の某先生(彼は別に共産党の代弁者ではない)と雑談した
際に,話がウルケシのことにまで及んだが,その先生はもう彼(ウルケシ)は完
全に過去の人物ですね,と平然と述べていた。北京には「六・四後遺症」のよう
なものは見当たらなかった。このような現実を踏まえ,89年の事件にたいする日
本人の認識を再検討することがぜひとも必要である。

8)エピローグ

 本論は93年10月23日に神戸商科大学で開催された「日本現代中国学会」の全国
学術大会で自由論題として報告した内容を踏まえている。

 筆者としてはその報告で二つの問題提起をしたかった。一つは中国研究者の「
六・四」以降の対中認識の問題であり,それは本論で述べたような内容であった。
この報告にたいして,天安門広場での虐殺の有無の問題は決着済の問題であって,
いまさら取り上げるまでもないことではないか,というような主旨の反論を受け
た。しかし筆者はとてもそのように楽観的に考えることはできない。まだまだわ
れわれは脳裏に刷り込まれた「虐殺幻想」を払拭できていないのである。

 もう一つ,筆者が問題提起をしたかったことは,学術報告の方法についてであっ
た。あえて同業研究者の著書を取り上げ,論議を挑もうとしたこともその一部で
あるが,もっと大きな問題提起を狙っていた。それは従来の学会報告のスタイル
がレジュメを配付し,口頭で報告する,というパターンに終始しているのをどう
にか変革できないか,ということであった。ことに報告内容が映像に関すること
なので,映像を見せながら報告し,納得してもらうスタイルを取りたかった。そ
のために具体的にはパソコンとビデオを活用し,それらの画面をテレビで表示す
る,というプレゼンテーションの改善を試みた。筆者はこれまでにもOHPを使
用して学会報告を試みたこともあったが,周囲を暗くしなければならないし,動
きが表現できないという点でいささか物足りなさを感じていた。幸いなことにそ
のような目的に合致するマルチメディアパソコンとそれで動くByHANDとい
うソフトウエアが存在していたので,未熟ながら新しいスタイルの学術報告を行
うことができた。この点で,大型テレビ2台を用意してくださった神戸商科大学
と,マルチメディアパソコンFM−TOWNSII一式を貸与してくださった富士
通株式会社のご協力があったことをここに記して感謝の意を表したい。今回の経
験で,事前に作っておいた報告主旨を,報告内容に合わせてパソコンのマウスを
クリックさせながら順次,テレビ画面に表示させてゆく方法は,OHPのように
部屋を暗くする必要もないし,報告を聞く人に問題点を集中させることができ,
非常に有力な学術報告の仕方であることが判明した。報告内容の改善も,フロッ
ピーに保存されているデータの一部を書き改めればよいだけなので,難しくない。
今後,学会報告のみならず,大学の教育と研究の場においても大いに活用できる
ものとの確信を持てたことは,コンピュータと中国研究との結合を願っている筆
者にとって大きな収穫であった。
                           1993年12月13日初稿
                           1994年2月14日二稿
 

To top of this document


【情報伝言】
           世界各国の童謡をCD化
       〜日本で暮らす外国人の子どもに母国の文化を〜

                           多文化共生センター

 日本で暮らす外国人の支援を主な活動とする民間ボランティア団体「多文化共
生センター」(本部・大阪市東成区)では、アジアや中南米で話されている5言
語の童謡を集めたCDとブックレット「多文化子どもの歌集Ciranda Cirandinha
(輪になろう)」を製作しました。

 日本で暮らす外国人は増加を続け、滞在が5〜10年と長期化する外国人も増え
て、定住化の傾向が一段と強まってきました。近年では家族の呼び寄せで来日し
た子どもや日本で生まれた外国人の子どもの増加が著しく、保育施設や学校など
に外国人児童・生徒がいる状況は珍しくありません。家庭内と学校で異なること
ばや文化に直面している子どもは増加する一方にかかわらず、多言語・多文化な
生活環境に対応した教材はまだほとんどないのが現状です。多文化共生センター
では、従来の多言語電話相談や外国人向け健康診断などの活動に加え、97年から
外国人児童・生徒がいる学校への通訳派遣や保母・教師の方を対象にした多文化
教育研修をおこなってきました。その中で「外国人の子どもに母国の文化を伝え
られる教材はないか」「日本人の子どもと外国人の子どもがいっしょに楽しめる
歌を教えてほしい」といった問い合わせが相次いだことから、世界各国の童謡を
集めたCDの自主制作を企画しました。昨年春から製作を進めていましたが、こ
の度完成し、6月から販売を開始します。

 収録するのは、中国語・韓国朝鮮語・タガログ語・スペイン語・ポルトガル語
の5言語の童謡で各々3曲ずつ計15曲です(各曲カラオケ付き)。「その国の人
なら誰もが知っている」「歌って楽しい」「覚えやすい」の3点を基準に、多文
化共生センターに関わりのある外国人にインタビューするかたちで曲を集め、関
西在住の外国人の母国語による歌声を収録しました。外国人の子どもがいる学校
などで音楽教材として使えるほか、日本人の子どもが異文化に親しむきっかけと
しても広くご利用できます。歌詞と楽譜、日本語による大意・解説を収めたブッ
クレットとセットで\3、000で発売します。

■お問い合わせ、申し込みは、
多文化共生センター大阪
〒537-0025 大阪市東成区中道 1-10-19 レジデンスカナイ3階
TEL:06-6973-7506        FAX:06-6973-7516
E-Mail:QWD01242@nifty.ne.jp  URL: http://www.jca.ax.apc.org/cmia/

までお願いします。なお、ホームページに紹介コーナーがあり、一部試聴が
できるようになっています。

 「多文化子どもの歌集  Ciranda Cirandinha(輪になろう)」
                     多文化共生センター編
                  
中国語                タガログ語
・しんぶん売りのうた         ・ニッパやしの小屋
・一せんの歌             ・10本のゆび
・せかいでママが一番         ・レロンレロンシンタ

スペイン語              ポルトガル語   
・ゴキブリさん            ・おてて
・ヒヨコのぴよちゃん         ・ぼうをねこになげつけた
・アロスコンレチェ(お米のデザート) ・わになろう

韓国朝鮮語
・学校のかね
・ポンダンポンダン
・うさぎちゃん

To top of this document



■COMのページhttp://www.come.or.jp/広告リンク募集中(com@come.or.jp)■  

華声和語 編集担当:徐 剛;  校正担当:田 興軍、楊 憲群
     HP作成:陳 剛; 磯野礼々
     編集局長:盧  存偉
     登 録 先:com-l-request@come.or.jp
     無料購読:Subject: subscribe-com
     自動脱退:Subject: unsubscribe-com
     HELP:Subject: help


◎東北風:本編集部の中国語隔週誌
◎网絡技朮文摘:本編集部の計算機技術に関するML・不定期誌(中国語)


COM編集部 (com@come.or.jp)
     総編集長:紀  暁恵
     技術担当:呉  南健、呉 勇、横山 隆志、林 熊
WWW  http://www.come.or.jp/
ftp  ftp://ftp.come.or.jp/pub/com
BBS  NIFTY SERVE中国論壇(GO CF) MES8, LIB2


 ご意見・ご投稿は大歓迎です。編集部(com@come.or.jp)へ送ってください。


本誌はボランティアのCOM編集部によって非営利目的で運営されています。
本誌の全ての文章は、担当者と編集部の見地を代表するものではありません。
本誌文章の他の出版物への転載は、編集部のメールによる許可が必要です。
本誌の印刷および再配布は非営利目的に限り自由です。

 To top of this document | To top of COM