
[編集前記]今年の7月から9月にかけて、日本経済新聞の夕刊は『留学100
年前の物語』というコラム記事を連載した。本誌は、今年の最後の紙面を借りて
その一部を紹介し、それに伴って通常のニュース報道は中止する。
異文化と出合う
柴崎信三
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(1)弁髪切る自由を得る
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魯迅が日本へやってきた一九〇二(明治三十五)年の東京は、すでに清末の革
命運動の在外拠点都市の感があった。
弘文学院にはのちの中国共産党創立メンバーである陳独秀ら、若い革命家が多
数学んでいる。教室の外でも、孫文は革命運動の資金工作などで欧米を行き来す
る足場に何度も東京や横浜に立ち寄り、一九〇五年に「中国革命同盟会」を旗揚
げするなど、特異な政治的熱気が渦巻いていた。
しかし、日本の土を踏んだ留学生が最初に衝撃を受けるのは、それとは次元の
異なる「髪形」の問題である。
「頭のてっぺんに長い辮髪(べんぱつ)を巻き上げているので、学生帽の頂上
が高くそびえて、富士山になっている。辮髪をほどいて、平に巻きつけているも
のもいる」(『藤野先生』)
この中国留学生の風俗を、街角の子供たちが面白がってはやし立てる。屈辱的
な体験だが、「豚のしっぽ」と呼ばれたヘアスタイルが、洋装の普及したこのこ
ろの東京で異彩を放ったことも確かだろう。
半年遅れで弘文学院に入学した親友の許寿裳は、東京に着いたその日に断髪し
た。
魯迅自身が断髪したのは翌年の三月だった。許の部屋を訪れたので「お、面目
を一新したね」と声をかけると、手で短い髪の頭をなでてにっこりした、と許は
回想している。
内面的事件として、それがどれほど大きなものだったかは、断髪記念写真を撮
って兄弟、友人に送っていることからも想像できる。学生服姿のその写真の裏に、
魯迅は一編の詩を書き付けた。
霊台神矢より逃るるに計なく
風雨は磐(いわお)の如(ごと)く故園は闇(くら)し
(心は日本で受けた様々な刺激を逃れられない。風雨はいよいよ激しいが、祖
国はなお闇(やみ)にとざされている=丸山昇訳)
魯迅は代表作『阿Q正伝』などで、作家としても髪形の問題にこだわり続けた。
これほどまでに髪形が中国の若い知識人たちの中で大きな比重を占めていた理
由は、弁髪が満州族の風俗であり、漢民族出身の留学生にとっては清朝による異
民族支配の象徴でもあったからである。
断髪は本来死罪とされた。晩年、魯迅はこう回想する。
「わたしが中華民国を愛し、やっきになって衰亡を憂慮するのも、大半は、中
華民国によって我々が辮髪を切る自由を得たためである」(『太炎先生から思い
出した二、三のこと』)
明治の開化で日本人が丁髷(ちょんまげ)を切ったのは西洋文明への同化のシ
ンボルだったが、弁髪にはそれに加えて国内の異民族支配の問題が大きな影を落
としている。
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(2)東京に現れた中国人街
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中国人留学生は魯迅が弘文学院に入学した一九〇二(明治三十五)年に四百―
五百人、以降翌年に千人、翌々年に千三百人、一九〇五年に一万人と、爆発的な
ブームが広がる。
日露戦争で日本が勝ち、清国が長い歴史を持つ科挙を廃止したことが拍車をか
けた。
留学生向け学校も弘文学院のほか、東亜同文書院、経緯学堂、早大や法政大の
清国留学生部と、開設が相次いだ。
神田、本郷、麹町などの界隈(かいわい)は中国人留学生向けの下宿、書店、
食堂などが軒を連ね、駿河台には清国留学生会館ができた。
「これらの支那(しな)留学生が列をなしてぞろぞろ街上をあるきまわり、留
学生専門の質屋も開かれ、煙草(たばこ)屋の娘が支那語を話すようになり、突
然、東京の中央に支那人街を現出するに至り、帝都に未曽有(みぞう)の一景観
を呈した」(『支那教育の権威』)
纒足(てんそく)の女子も子供連れの既婚者もいた。全く学歴のない者から、
挙人、秀才など学位を持つ者まで、学生の顔ぶれも幅広かった。
嘉納治五郎は教育にさまざまな工夫を試みている。
日本の国情を知るために教員が学生を連れて近郊の名所を巡る。体育を重視し
て秋には運動会を開き、寄宿舎の食事を中国人向けに配慮した。
授業では日本人教員が漢文崩しの文体で口述するのを通訳が中国語に訳し、黒
板に書き出す。弱点の理数系の知識を高めるために教師たちが腐心しているのは、
欧米に学んだ幕末から明治初期の日本人留学生をほうふつとさせる。
とはいえ、この学校に要請されたのは「実務と速成」の教育である。そのうえ、
教室の外へ一歩出れば祖国を巡る革命論議が渦巻いている。
「東京も格別のことはなかった。上野の桜が満開のころは、眺めはいかにも紅
の薄雲のようではあったが、花の下にはきまって隊伍(たいご)を組んだ『清国
留学生』の速成組がいた」
『藤野先生』の冒頭で、魯迅はそのころの心象をある虚無感を漂わせて伝えて
いる。
「中国留学生会館は玄関部屋で本を少しばかり売っていたので、たまには立ち
寄るのも悪くはなかった。午前中なら奥の洋間で休むこともできる。だが夕方に
なると、きまってその一間の床板がドシンドシン地響きを立て、ほこりが部屋じ
ゅう濛々(もうもう)となる。消息通にきいてみると《あれはダンスの稽古(け
いこ)さ》という答えだ」
西洋の実利的な知識を身につけて栄達を目指す仲間も、革命を呼号して実はそ
のあとのポストをねらう俗物も嫌だった。
そこには青春が抱えるやりきれない現実への違和感がのぞいている。
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(3)儒教的礼法強要でトラブル
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魯迅は立身出世やダンスに浮かれる実利派とヒロイズムに酔う革命派の間で小
さな幻滅を抱いて東京を離れ、医学を志して仙台へ行く。一九〇四(明治三十七)
年である。
仙台医専での藤野先生との出会いや文学への転向をめぐるドラマにふれる前に、
同じころ東京へやってきた他の留学生の生活を見てみたい。
魯迅が東京をあとにした翌年、湖南省出身の黄尊三という二十二歳の若者が来
日して弘文学院に入学する。
足掛け八年日本に滞在したこの留学生は、来日から帰国までの長い期間にわた
って克明な『日本留学日記』を残した。今世紀初めの東京を舞台にした、きわめ
て興味深い異文化の出合いの記録である。
省都長沙の学堂から日本留学生に選ばれた黄尊三が、学友二十人余りと船で長
江を下る旅に出発したのは一九〇五年の五月十三日。その途上で早くも、中国社
会の時代の変わり目を象徴するようなトラブルが生じる。
武昌(今の武漢)で「日本留学の父」の両湖総督、張之洞が引見の際、留学生
たちに「跪拝(きはい)の礼」を求めて拒否されるのである。
ひざまずき、頭を地につける儒教的礼法の強要は、近代の中国でしばしば紛争
を引き起こしている。一七九三年、市場開放を求めて英国から派遣されたマカー
トニー卿(きょう)がこれを拒んだため、交渉は決裂した。
今度は同じ中国の学生たちが反発して、留学の旅が十日も空転するのである。
「十日に長沙を出発して、今日で十日になるが、このくだらないことで途中で
足止めになり、進むことが出来ず、空(むな)しく日数を費やすとは、惜しいこ
とである。中国の大官が、おのれの虚栄ばかりを考えて他人の人格を重んずるこ
とを知らぬとは、実に浅ましいことである」(五月二十三日付『日記』)
結局、手をこまぬいてする「鞠躬(きっきゅう)の礼」でもいいと妥協が成立
し、ようやく旅は再開された。
九江、南京と長江を下って上海に着くのが五月二十九日。ところがここでは日
露戦争で東シナ海が危険なため、一行は再び二週間以上の足止めを余儀なくされ
る。
宿で日本語の勉強をしたり、『紅楼夢』を読んだりして暇をつぶしながら、黄
尊三は初めてみる大都市上海の都会風俗に目を見張っている。
「遊女、雲の如し。皆姑蘇の芸者で、茶を飲んだりアヘンを吸ったりしていて、
男女が一緒に坐(すわ)って平気である。長沙では見たこともないほど開けてい
る」(五月三十一日付『日記』)
六月十八日、ようやく日本に向かう船が出港した。日本海海戦で日本が東シナ
海の制海権を握ったのである。
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(4)口に合わぬ食事に閉口
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黄尊三は日本に来たとき二十二歳だったが、故郷の湖南省辰渓に妻子ら家族を
残した既婚者の単身留学だった。
横浜に上陸して一九〇五年六月、魯迅も学んだ東京の弘文学院に入学する。早
速弁髪を切って授業に臨むが、湿気の多い日本の気候や淡泊で質実な日本の食事
になじめず、体調も損ねた。
言葉の不自由とともに、こうした風土の落差がもたらす留学生活の苦労は、国
際化が進んだ現代のそれとは比較にならないものがあったろう。
「生卵一個と汁一椀(わん)、飯も小さな箱に盛り切り、食べてみてとても口
に合わない」
長い旅を終えて巣鴨の学院宿舎に荷をほどいた晩の食事を、黄尊三はこう記し
た。
『日記』を訳した実藤恵秀氏によると、留学の最初の世代を迎えた「日華学堂」
の記録には、こんな記述もある。
「午餐(さん)一尾八銭ノ香魚ヲ菜ニ供ス。生徒中往々不満ノ言ヲ発シテ曰ク、
我(わが)国ニテハ是(これ)猫ノ食フモノニシテ、人ハ食セズト。日清食物嗜
(し)好ノ異ナル斯(かく)ノ如(ごと)シ」(『中国留学生史談』)
どんなに窮しても三度の食事は粗末にできないのが中国人である。「猫の食う
もの」とは穏やかではないが、東京でも料理技術や味覚面でまだ未開発だったに
違いない。
厳安生氏によると、留学生たちが最も苦手としたのは「生魚、生卵、生大根の
類(たぐい)」という。この嗜好は百年近くたった今も基本的には変わっていな
い。
「日本視察ブームで来た各種代表団の人たちは、日本料理のご馳走ほどたじた
じ、“生魚片”はもとより、火を通って美味(おい)しいはずの“鶏素焼”(す
き焼き)も生鶏卵につけて召し上がれと教えられたら、箸はおそるおそる、美味
しさは半減、ともなりかねない」(『日本留学精神史』厳安生)
魯迅も東京の下宿で食事に悩んだ。仙台から戻って住んだ本郷の中越館で出さ
れるのはがんもどきの煮付けばかりで、友人が訪れたとき懐に余裕があれば、仕
方なく牛肉の缶詰を買って開けたという。
もう一つ、来日早々の黄尊三を悩ませたのは湿気の多いこの島国の風土である。
「午後、学友廖楚章が血を吐いて病死したと聞き、ぞっとする。僕の病気は少
しよくなったが、時々腹が痛くなり、命はなお危ない。東京は海に近くて雨が多
く、湿気がひどい」(八月四日付『日記』)
「高等学堂の学友で東京に来た者のおよそ二十人が、大抵病気にかかった」と
もあり、命を落とす者もいた。留学生たちが異国の環境になじめずに、宿舎で悶
々としながら故郷を思う姿はいたましい。
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(5)1300年の科挙の歴史に幕
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黄尊三が来日した一九〇五(明治三十八)年は、中国人留学生たちにとってさ
まざまな意味で重要な年だった。
バルチック艦隊を破って日露戦争に勝利した日本は、西欧列強に伍する「アジ
アの雄」としてひときわ留学熱をかき立てる対象となった。
これを裏付けるように、日本の中国人留学生の数は前年の約千三百人から一万
人へ、爆発的に上昇している。
もう一つは、清朝が科挙試験を廃止したことである。
「新聞によれば、清朝は八月六日(旧暦)に詔勅を出して科挙をやめにした、
とある。とても嬉(うれ)しい。科挙をやめない以上、科学は決して発達しない。
これからは中国でも、科学に一脈の光がさすかもしれない」(九月十二日付『日
記』)
何しろ、隋ヨウ帝が六〇六年に採用して以来、千三百年も続いたエリート選抜
制度であり、今日の試験制度も欧州各国が科挙を継承、発展させたシステムにほ
かならない。
黄尊三の日記が比較的冷静なのは、伝統的な読書人、士大夫を養成する科挙制
度がすでに力を失い、日本への留学が清末の近代的な知識層を育てる仕組みとし
て認知されつつあったことを意味する。
宮崎市定氏の『科挙』によると、その仕組みは過酷な受験競争の積み重ねであ
る。
小学生レベルの童子試に受かると県試、府試と次第に広域の受験があり、院試
に合格すれば秀才になる。ここで初めて本格的な科挙の一次試験ともいうべき郷
試を受ける資格を得るが、これに合格して「挙人」となっても、中央のエリート
官僚を目指すなら、さらに会試、殿試をパスして進士となる必要がある。殿試は
皇帝自ら行うもので、上位合格者三人にはさらに特別な栄誉が付される。
本試験は三年に一度、最後の進士に残るのは全体でおよそ三百人に過ぎない。
その試験の内容も四書五経に類する古典の暗記と注釈、レトリックや書法の訓
練を徹底して問われる。十五歳で覚えるべき漢字の数は四十三万字というから、
ただごとではない詰め込み教育である。
受験勉強がうまく進まずノイローゼにかかる若者、挫折して過激な革命運動に
走る若者と、科挙に伴う社会的な影もひところの日本の受験戦争を思わせる。
その形式主義と内容の形骸化がもたらす弊害を、清朝の為政者も認めざるを得
なかった。
「留学にはその時代の政治力学が反映する。日本に科挙の準備のつもりできた
中国人留学生も多かったはずだが、その廃止は祖国の近代化の遅れに改めて気づ
いて自分の役割を自覚する大きなポイントになったはずです」と厳安生氏は指摘
する。
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(6)科挙巡る三代の怨恨
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科挙の廃止で思い起こすのが、魯迅の故郷の紹興で立ち寄った街角の食堂兼酒
場「咸享酒店」である。
「往来に面して、曲尺(まがりじゃく)型の大きなカウンターがあり、カウン
ターの内がわにはいつでも燗(かん)ができるように湯が用意してある。労務者
たちが、昼か夕方の仕事をおえたあと、銅銭を四枚出して酒を一杯買いカウンタ
ーにもたれて立ったまま熱いところをひっかけて息をいれる。もう一枚奮発すれ
ば、塩筍(たけのこ)か茴香(ういきょう)豆が一皿出て、つまみになる」
(『孔乙己』)
魯迅が描いた通りの店が、地元の人たちや観光客でにぎわっている。
私たちも名物の臭豆腐や川エビと紹興酒のチケットを買い、掘割に面した木製
のテーブルに運んでグラスを傾けた。
本場の紹興酒は芳香を放った。水面に映るプラタナスの葉が美しい。小さなざ
わめきの中で陶然としながら、科挙と日本留学の間に揺れた周樹人、のちの魯迅
の青春を思った。
『孔乙己』は科挙に翻弄(ほんろう)された旧世代読書人の末路を描く短編小
説である。
主人公は科挙に挑戦しながら志を果たさなかった中年男で、「私」が給仕をつ
とめる酒場をうらぶれた姿で訪れる。
書物の筆写でその日の糧を得ているが、怠け者で懐はいつも寂しい。にもかか
わらず、酒場でもインテリ癖が抜けず「なりけりあらんや」といった調子だから、
客は面白がって科挙の習字の手本に出てくる「孔乙己」をあだ名にしてからかう。
「おまえ、どうして、秀才の卵にもなれなかったんだい」と。
科挙制度が廃止されると、若い世代は洋学や留学で新しい世界を目指した。年
齢的にもその柔軟性を持たない世代の運命はせつない。無用の長物となった科挙
への幻影を引きずりながら、孔乙己はある日忽然(こつぜん)と姿を消す。
そこには最終難関の殿試をパスしてエリートとなった祖父、対照的に何度も本
試験の郷試を受けながら果たさず、失意のうちに没した父、そして一族再興への
期待を担いながら日本留学の道を選んだ自身という、科挙を巡る魯迅三代のルサ
ンチマン(怨恨=えんこん)が投影されている。
辛亥革命の革命家はもちろん、中国共産党創立メンバーの陳独秀も教育ママの
叱咤(しった)のもとで秀才の資格を得た人だ。
「科挙崇拝については、当然ながら先輩方々を責めるべきではない。(略)な
ぜなら、あの時代の社会において、科挙は一つの虚栄に過ぎなかったが、社会全
域にわたって、一般の人々の実際の生活を支配していたことは事実であるからだ」
(『実庵自伝』横山宏章訳)
科挙が廃止された年、仙台で医学を学んでいた魯迅はどんな思いを抱いたのだ
ろうか。
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(7)「中国革命同盟会」の誕生
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一九〇五(明治三十八)年は東京の中国人留学生にとって、もう一つの大きな
意味を持つ年である。
六月、日清戦争後に日本に亡命して以降しばしば立ち寄り、資金集めなどで中
国革命の足場を固めていたリーダーの孫文がフランスから来日、横浜に約百人の
同胞留学生たちが出迎えた。
孫文の広東派、章太炎が中心となった浙江派、黄興が指導する湖南派の留学生
が大同団結して八月、「中国革命同盟会」を結成するのである。
東京は中国の革命運動の拠点だった。七月三十日、東京・赤坂の結社「黒竜会」
の本部では留学生たちのほか、黒竜会の主宰者である大陸浪人、内田良平や宮崎
滔天といった日本人の支援グループも加わって準備会が開かれた。
民族、民権、民生の三民主義の下、清朝打倒と共和制へ向けた革命で結ばれた
同盟会が発行する機関誌『民報』は、留学生や本国のインテリ層に大きなインパ
クトを与えた。
「売れ行きは素晴らしいもので、東京の留学生間には勿論(もちろん)のこと、
支那の内地でも随分読まれたさうです。随(したが)ってそれの発送する苦心は
非常なもので、民報社の方々は不眠不休で努力されてをられました」(滔天の妻、
槌子の回想)
もっとも、来日直後の黄尊三の日記には同盟会の記述は見あたらず、十一月末
に『民報』の名前がようやく見える。どちらかというとノンポリ系統の留学生だ
ったためか。
「午前、授業。夜、入浴後、『民報』を読む。宋遯初・汪精衛等が創(はじ)
めたもので、革命を鼓吹し、民族主義を提唱する。文章もよく、理論も優れてい
て、その価値は『新民叢報』以上だ。これは革命党の機関誌である」(十一月二
十九日付『日記』)
魯迅はすでに医学を志して仙台に移っている。
弁髪姿の立身出世派にも、ダンスにうつつを抜かす享楽派にも違和感を抱いて、
「では、ほかの土地へ行ってみたら」と東京を離れた若者は、革命派とどうかか
わっていたのか。
実は東京の魯迅が同盟会の前身である故郷浙江の革命グループ「光復会」のメ
ンバーであったかどうかには、二説ある。
弟の周作人が「彼は結局同盟会に加入しなかった。……また光復会にも加入し
なかった」と書いているのに対し、留学時代からの親友、許寿裳が作った魯迅の
年譜には一九〇八年に「この年章太炎先生について学ぶ。光復会会員たり」とさ
れる。
祖国への愛情と歴史のうねりに揺さぶられながら、青年が革命運動への参加に
悩み続けたことは間違いない。運動の熱気はやがて、留学生の管理をめぐる当局
との対立に発展する。
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(8)規則に反発、2000人一斉帰国
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「三時、弘文学院の学友も討論会を開く。みんなは、日本の政府はひたすら留
学生に難題をもちかけ、僕らの人格を尊重しない、もしも取締規則を取り消さな
いなら、一斉に退学するほかない、といい、非常に憤激し、まもなく散会した」
(一九〇五年十二月一日付『日記』)
空前の日本留学熱で一万人を超す中国人留学生が押し寄せたこの年の暮れ、中
国革命同盟会結成が引き金となって文部省が決めた留学生取締規則に学生たちが
反発し、一斉帰国事件に発展する。日記の黄尊三もその一人である。
革命運動の高揚を危惧(きぐ)した清国政府は日本政府に対し、過激な留学生
の取り締まりを要請、これを受けて文部省は十一月「清国人ヲ入学セシムル公私
立学校ニ関スル規定」を公布した。
留学生たちはかねて、警察が抜き打ち的に留学生の荷物を検査するといったや
り方に不満を抱いていた。
取締規則は学校に対し、留学生の居住場所を寄宿舎か学校の監督の目の行き届
いた下宿に限り、併せて校外の行動の取り締まりを求めた。また他校で退学など
の処分を受けた留学生を入学させないことを明記している。
黄尊三のいた弘文学院でも、学生たちがストライキに入るなど騒動は拡大した。
湖南省の留学生グループが「一斉退学、帰国」を構えていた十二月、事件が起
きる。
「同郷の陳天華君が取締規則のことに憤慨して投身自殺をし、遺書数千言、学
友を励まし、取締規則取消の目的を達しなかったならば、日本に留まるべきでは
ないと書いている、という。それを聞いて、深く哀悼する」(十二月十日付『日
記』)
陳天華は湖南の革命派で、日本に亡命した人物だが、学生の行動を批判した日
本の新聞報道に抗議しての自殺は、留学生たちの悲憤慷慨(こうがい)をさらに
かきたてる。
厳安生氏によると、清末の日本留学生の記録では少なくとも十二人が日本での
屈辱や清朝の弾圧に抗議する形で「憤死」しているという。もちろんすべてが政
治的な死であったとも思えず、黄尊三がそうであったように、言葉や風土になじ
めないノイローゼ気味の留学生は少なくなかった。
「一部にノイローゼの要素があったにしても底にやりきれない憂鬱(ゆううつ)
または憤懣(ふんまん)があったことは間違いなく、それはすなわちその時代に
特有の傾向であり、真実であったと言わなければならない」(『日本留学精神史』)
こうして、留学生のうち約二千人が一斉帰国する事態となった。黄尊三もこれ
に加わり、年末に長崎をたっていったん帰国の途に就いた。
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(9)日本人の優越感、摩擦を拡大
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一斉帰国といった事態にまで発展しないにせよ、日本にやってきた中国留学生
が無理解のため誇りを傷つけられて摩擦を起こした例は、それまでにも少なから
ずあった。
弁髪風俗を子供にはやし立てられた屈辱は、既にふれた。
一九〇三(明治三十六)年三月、大阪・天王寺公園で開催された第五回内国勧
業博覧会に、アジア各地の諸民族を招いて住居や服飾、風俗などを紹介する「人
類館」が計画された。
そこに台湾、朝鮮、インド、ジャワなどの各民族と並んで「支那(しな)」が
含まれており、纒足(てんそく)の中国女性が「出演」することがわかると、留
学生たちは憤激する。
「われわれを生蕃(せいばん)にたとえ野蛮人におとしめる」という直接の抗
議に、政府は出展を撤回したが、トラブルは尾を引いた。
日本人の纒足へのまなざしが新しい世界にふれた留学生にもたらす恥ずかしさ
は、魯迅の小説でもふれている。
同郷人を横浜に迎えた「私」は、彼の荷物の中の纒足靴を税関吏が珍しそうに
手にとっているのを目の当たりにして、持ち主に詰問する……。
「《何だってあんなものを持ってきたんだい? 誰(だれ)のかね?》《先生
の奥さんのにきまってるじゃないか》かれは白眼がちの目をむいた。《東京に行
けば纒足は隠さなくてはならんだろ? あんなもの、どうする気かね?》《そん
なこと知らんよ。奥さんに聞いてみろよ》」(『范愛農』)
厳安生氏は指摘する。
「近代文明のりっぱな一施設であるはずの各種の博覧会や展示館が、日本にお
いては現地に来ている勉強熱心であると同時に感じやすい中国人留学生たちにと
って、実に問題と摩擦の多い場所であった」
もっと生々しく留学生のプライドを損ねたのが、日清戦争の戦利品を展示した
靖国神社境内の「遊就館」だった。
李鴻章の書いた「海軍公所」の看板、義和団の乱を鎮圧後に進献された「順民」
の旗、清朝の軍服までが、所狭しと陳列されているのだから、留学生の心中は想
像できる。
比較文学者の平川祐弘氏は「明治三十年代は国際的にみて日本の評価と中国の
評価との間にいちばん差が開いた時代だ」という。「外国留学というのは、文化
上の発展途上国から先進国へ学びに行くのが一番多いのだが、その際、留学生の
数の増減は文化上の差に比例する」
日清、日露戦争に勝って「アジアの盟主」意識を広げつつあった日本人が、
「文明」を学びに押し寄せた中国人留学生に向ける無意識の優越感情が、こうし
た摩擦を広げていったことは指摘するまでもない。
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(10)未来への夢と民族の誇り交錯
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留学生取締規則事件で憤慨して一斉帰国に加わった黄尊三はその後どうしたの
か。
上海から長江(揚子江)をさかのぼる長い船旅で、長崎をたってからおよそ五
十日後の一九〇六(明治三十九)年二月初旬、故郷の湖南省辰渓に戻った。しか
し、黄を待っていたのは母親と一人娘の死という不幸だった。
悲しみに暮れながら妻と墓参やあいさつ回りを済ませたころ、東京に残った学
友から「事件は収まったので早く戻れ」という手紙が届く。留学を続けることに
妻も賛成してくれたので、黄は一月足らずの帰郷ののち、再び長江を下る。上海
は同じように日本へ引き返す学生たちであふれ、船の切符は奪い合いだった。
再来日した黄は、正則英語学校に入学する。
「中国を強くするには、東西の文化を輸入せねばならぬ。そして文化は多くは
書籍によって輸入される。外国語に通じていないと、東西(日本と西洋)の新書
を読むことが出来ない」(四月十七日付『日記』)
英語を学び、日本語の家庭教師につきながら、黄は友人と上野の山に花見に出
かけたり、神田の書店街で本を探したり、浅草の凌雲閣に上ったりして東京の留
学生活をエンジョイしている。一方で靖国神社に陳列された日清戦争の戦利品の
山に憤慨している。
このころの黄の日記に、社会ダーウィニズムを説いたハックスレーの『進化と
倫理』の翻訳『天演論』と『王陽明論集』が見えるのは、西洋文明と儒教的世界
の間に揺れ動く中国留学生の内面をのぞかせていて興味深い。
黄の日記でもう一つ特筆していいのは、望郷の慰めや友人との語らいでしばし
ばしたためる五絶、七絶など、詩歌の面白さである。読書人文化の残照であろう。
夜深人静帰来晩
独把清琴対月弾
指落氷弦渾不覚
秋心遥寄白雲辺
(夜深く人静まりて帰り来ることおそし ひとり清琴をとって月にむかいてひく
指は氷弦に落つるもすべて覚えず 秋心はるかに寄す白雲の辺に)
厳安生氏は『日本留学精神史』の中で、日本留学生として黄の湖南の先輩にあ
たる蔡鍔の「湖南士紳に寄せる書」という一文を紹介している。
蜻蜒点水 天女行空 美哉国乎 何其誇也 卅年以前 与我奚間(三十年前ま
では我が国と何ら異なることがなかった日本が、一変してこんなにまで功を奏し
たのは一体どういうわけだろう)
古来「蜻蛉洲(あきずしま)」「蓬莱(ほうらい)の島」などと呼んだ東海の
島国に学ぶ彼らの胸には、未来への夢と中華民族の誇りが交錯して複雑なものが
あったろう。