
一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
政府が古賀の懇願をしりぞけてまもなく、九年このかた待ちに待っていた、釣 魚諸島略奪の絶好の機会がついに到来した。宣戦布告に先立つ日本軍の清国軍不 意打ちで火ぶたを切った日清戦争で、日本の勝利が確実になった九四年末こそ、 その機会であった。このとき天皇政府は断然、釣魚諸島を日本領とすることにふ み切った。まず十二月二十七日、内務省から外務省へ、去年十一月の沖縄県知事 の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書 で協議した。その本文は次の通りである(傍註は『日本外交文書』編者のもの 【都合上傍註は( )内記載に変更した:巽】 )。
久場島、魚釣島へ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号(註 省略)ノ通リ沖縄県知事ヨ リ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビ タル次第モコレ有リ候へドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣 議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也
明治廿七年十二月廿七日
内務大臣子爵 野村 靖(印)
外務大臣子爵 陸奥宗光殿」
この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ 、近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ、之ガ取締リヲ要スルヲ以テ 、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ、右ハ同県ノ 所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス。
右閣議ヲ請フ」
この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の 「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるの を恐れていたとみえる。
外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて一八九五年(明治二十八年 )一月十一日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無 キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月十四 日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾 嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月二十一日、内務大臣 から沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」(註)と指令した。
(註)『日本外交文書』第二三巻、「八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニ関スル件 」の「付記」。
八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸 島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の 返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだの に、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは 、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の「其 ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
明治十八年と二十七年との「事情の相異」とは何か。十八年には古賀辰四郎の 釣魚島における事業は、始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、二 十七年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、 政府をしてその取締りの必要を感じさせるようになった、ということであろうか。 それも「事情の相異」の一つとはいえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要 な「相異」であるならば、その相異はすでに明治二十三年にははっきりしている 。その相異を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに 対して、政府は何らの指令もせずに四年以上もすごした。さらに二十六年十一月 に、沖縄県が前と同じ理由で重ねて標杭建設を上申したのに対しても、政府は返 事をしなかった。その政府が二十七年十二月末になって、そのとき沖縄県から改 めて上申があったわけではないのに、突如として一年以上も前の上申書に対する 指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が 生じたということは、九年前と今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもと より、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければ ならない。
明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめてはいない。さ らに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよ りのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していた わけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実と なり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定して いる。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する「事情」の、以前といまとの 決定的な「相異」である。
日清戦争は、陸でも海でも日本軍の連戦連勝であった。九四年九月、日本陸軍 は朝鮮の平壌の戦闘で、海軍は黄海の海戦で、いずれも決定的な勝利をかちとっ た。つづいて陸軍の第一軍は、十月下旬までにことごとく鴨緑江を渡り、十一月 中旬には大東溝・連山関を攻略、第二軍は、十月下旬に清国遼東半島の花園口に 上陸、十一月上旬に金州城を奪い、大連湾砲台を攻略し、同月二十一日には連合 艦隊と協力して旅順口をも占領した。この間に海軍は、清国海軍の主力北洋艦隊 を、渤海湾口の威海衛にひっそくさせた。
戦局の推移を注目していたイギリスは、早くも十月八日、駐日公使をして、日 本政府に講和の条件を打診させた。そのころから政府は、日本の圧倒的勝利を確 信し、清国から奪い取るベき講和条件の具体的検討をはじめた。その重要条件の 一つは、台湾を割譲させることであった。
清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめ て早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻 章も、早く講和するほかないことをさとった。
この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に 向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分れ た。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期 はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。
このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、 本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二 月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。 その要旨は次の通りである。
北京進撃は壮快であるが、言うべくして行なうべからず、また現在の占領地に とどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだげの愚策である。いま日本 のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をも って、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊 を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出して これを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は 決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと いう声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領 しておくほうがよい(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)。
大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬 に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終った。この間に台湾占領 作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖 列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略 の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割 譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。
天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と 大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。 一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の「疑惑 ヲ招キ」紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてて も、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するま でのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここ を清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間 にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、こ こは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとし てもふしぎではない。
釣魚諸島を沖縄県管轄の日本領としようという閣議決定は、このようにして行 なわれた。しかるに本年三月八日の外務省の「尖閣列島」の領有権に関する「見 解」は、「尖閣列島は、明治十八年以降、政府が再三にわたって現地調査を行な い、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないこ とを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣 議決定を行ない……」という。これがいかにでたらめであるかは、本論文のこれ までの各節によって、まったく明白であろう。
明治政府が釣魚諸島の領有に関して現地調査をしたことは、一八八五年の内務 大臣内命による沖縄県の調査があるだけである。しかもその調査結果を内務省に 報告したさいの沖縄県令の「伺」は、「国標建設ノ儀ハ、清国トノ関係ナキニシ モアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相スマズ」と、この島に対する清国の権利を 暗にみとめて、国標の建設をちゅうちょしている。すなわち沖縄県の調査の結果 は、この島の日本領有を正当化するものにはならなかった。この後政府は改めて この地の領有権関係の調査をしたことはない。したがって、これらの島々に「清 国の支配が及んでいないことを慎重に確認した」というのも、まったくのうそで ある。そんなことを「慎重に確認した上で」、釣魚諸島領有の閣議決定はなされ たのではない。一八八五年には清国の抗議を恐れなければならなかったが、いま は対清戦争に大勝利をしており、台湾までも奪いとる方針を確定しているという、 以前と今との決定的な「事情の相異」を、「慎重に確認」した上で、九五年一月 の閣議決定はなされたのである。
閣議決定とそれによる内務省から沖縄県への指令(一月二十一日)は、日清講 和条約の成立(九五年四月十七日調印、五月八日批准書交換)以前のことである 。したがって、いま政府がいうように、その閣議決定によって釣魚諸島の日本領 編入が決定されたとすれば−−閣議で領有すると決定しただけでは、現実に領有 がなされたということにはならないが、かりにいま政府のいう通りだとすれば、 それらの島は、日清講和条約第二条の清国領土割譲の条項によって日本が清国か ら割き取ったものには入らない。しかし、講和条約の成立以前に奪いとることに きめたとしても、これらの島々が歴史的に中国領であったことは、すでに十分に 考証した通りである。その中国領の島を日本領とすることには、一八八五年の政 府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、九五年の政府は、清 国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。
すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪し たものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清 国から盗み取ることにしたものである。
一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
日本が「尖閣列島」を「領有」したのは、時期的にたまたま日清戦争と重なっ ていただけのことで、下関条約によって台湾の付属島嶼として台湾とともに清国 に割譲させたものではない、したがってこの地はカイロ宣言にいうところの、「 日本国が清国人から盗取した」ものではない、というものがある。たとえば日本 共産党の「見解」がそれである。たしかに、この地は下関条約第二条によって公 然と正式に日本が清国から割き取ったものではない。けれども、この地の日本領 有は、偶然に日清戦争の勝利の時期と重なっていたのではなく、まさに日本政府 が意識的計画的に日清戦争の勝利に乗じて、盗み取ったものである。このことは、 本論の前二節に詳述した、一八八五年以来の本島の領有経過によって明白である。
朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(一九七二年三月二十日)は、 もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立 てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、この さい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉 の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではな かろうか」という。
しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をし ていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎ り、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表 されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけ でもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公 示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを 問題にすることは不可能であった。
また、第二次大戦後の日本の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を 問題にしなかったというが、日本と中国との間の領土問題の処理は、まだ終って いないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの 講和会議には、中国代表は会議に招請されるということさえなかった。したがっ て、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時 日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国 を代表する政権と結ばれた条約ではないから−−当時すでに中華人民共和国が、 真の唯一の全中国の政権として存在している−−その条約は無効であって、これ また中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本と の間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまっているわけではなく、これ から、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近 まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領 であることは明白であるとはいえない。
明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国 および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現 地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれな いようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外 務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろ ん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「 久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示された ことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第 二三巻の刊行ではじめて公開された。
のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたと いう事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何 年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九 六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な 油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争 いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方型の石の上部に左横から 「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」 「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣 市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。
(註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。
つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領土に編入したといいながら、そ のことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近 まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際 的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すく なくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ 、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけで は、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。
釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さ っぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点につ いて、琉球政府の一九七〇年九月十日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の 開発権に関する主張」は、この地域は、「明治二十八年一月十四日の閣議決定を へて、翌二十九年四月一日、勅令第十三号に基づいて日本の領土と定められ、沖 縄県八重山石垣村に属された」という。
これは事実ではない。「明治二十九年勅令第十三号」には、このようなことは 一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。
「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ、茲ニコレヲ公布セシム。
御名御璽
明冶二十九年三月五日
内閣総理大臣侯爵 伊藤博文
内務大臣 芳川顕正
勅令第十三号
第一條 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス。
島尻郡 島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島 、鳥島及ビ大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及ビ伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二條 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定 ム。
附則
第三條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」
この勅令のどこにも、「魚釣島」や「久場島」の名はないではないか。むろん 「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球 政府の七〇年九月十七日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅 令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の 『八重山諸島』に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分 上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。……同時にこれによって 、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」という。
これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。勅令第十三号には、島尻 郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地 理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山 郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これま で八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。 これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧 琉球王国領でもないことは、百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸 島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」 したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふく まれると「解釈」したなどと、現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や 黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事 実を打ち消すことはできない。
じっさい、この勅令は、もともと釣魚諸島の管轄公示とは何の関係もない、沖 縄県に初めて郡制を布く(これまで郡制は沖縄県にはなかった)ということの布 告にすぎないのである。
釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あ るいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが 公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「 国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成 立していない。
明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土としたばあいには、その正 確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。釣 魚諸島を奪いとる四年前、一八九一年(明治二十四年)、小笠原島の南々西の元 無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に 次のように協議した。
「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分ヨリ同二十五度三十分、東経百四十 一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶼ハ、元来無人島ナリ シガ、数年来、内地人民ノ該島ニ渡航シ、採鉱、漁業ニ従事スル者コレ有ルニ付 キ、今般該島嶼ノ名称、所属ニ関シ、別紙閣議ニ提出ノ見込ニコレ有リ候。然ル ニ右ハ国際法上ノ関係モコレ有ルベシト存候ニ付キ、一応御協議ニ及ビ候也。」
「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠 原島ノ所属トシ、其ノ中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ、其ノ南ニ在ルモノヲ南硫 黄島、其ノ北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と、その所属と島名の案も示してあ る。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治二十四年九月九日付 勅令第百九十号として、『官報』に、その位置、名称及び所管庁が公示された。 さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた(『日本外交文書』第二四巻「 版図関係雑件」、『新聞集成明治編年史』)。
さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八 年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として 、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づ けて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内 務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐 島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス 。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二 日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。
(註)この「竹島」を日本領としたことは、朝鮮国領土の略奪であると朝鮮側 が主張していることは、周知のことであろう。私はまだこの問題を十分に研究し ていないが、この領有は無主地の先占であるという、自民党調査役大熊良一の「 竹島史稿」の説には、大いに疑問をもっている。
「竹島」領有の経過を詳述した自由民主党調査役大熊良一は次のようにのべて いる。「このような(竹島領有のばあいのような)閣議決定の領土編入について の公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年いらい明治政府によ ってとられてきた慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本国領土に 編入された事例が多くある。硫黄島(一八九一年)や南鳥島(一八九八年)さら に沖の鳥島(一九二五年)などの無人の孤島が、日本国の領土に編入され、それ が国際的にも認知されるに至った公示の手続きは、すべてこの竹島の国土編入の 手続きと同じように、地方庁たる府県告示をもって行なわれたのである。」(硫 黄島は前記の通り、勅令で公示されている−−井上)
帝国主義支配政党である自由民主党調査役でさえ、この通り、新領土編入の場 合にはその公示を必要とすることをみとめているが、釣魚諸島の領有についてだ けは、それがまったく行なわれていない。日本政府は、この島々の緯度・経度も 、名称も、所轄も、どんな形式によっても、ただの一度も公示せず、すべて秘密 のうちに、日清戦争の勝利に乗じて、勝手に、いつのまにか日本領ということに してしまった。これを窃かに盗んだといわずして何といおう。
こういう次第であるから、現在政府や日本共産党や諸新聞が「尖閣列島」と称 している島々の地理的範囲も、どこからどこまでのことか、いっこうにはっきり しない。またその「列島」内の個々の島の名称も、政府部内においてさえ、海軍 省と内務省系統とはよび名がちがう。このことはすでに本論文の第七、八節でく わしくのべた。也国の領土を、内心ではそうと気づきながら、「無主地」だなど とこじつけ、こっそり盗みとるから、その「領有」を公示もできず、その「領有」 の年月日も、その地域の正確な範囲も、位置も、その名称すらも一義的に確定で きないのである。
これが、彼らのいう「無主地の先占」の要件を一つも充たしていないことは、 彼らが「硫黄島」や「竹島」を領有したしかたとくらべてみれば、誰にもすぐわ かるであろう。
釣魚諸島は本来無主地ではなく、れっきとした中国領であった。この地に「無 主地の先占」の法理を適用すること自体が本来不可能であるが、かりに無主地で あったと仮定しても、その「先占」なるものも、この通り日本領編入を有効に成 立させるのに必要な法的手続きを行なっていない。真の無主地を、あるいは本気 で無主地と信じている土地を、何らの悪意もなく領有するのではなく、内心では 中国領と知りながら、戦勝に乗じてそこをかすめとるから、こういうことになら ざるをえないのである。これはどうりくつをつけてみても、合法的な領有とはい えない。
一八九五年、日清講和条約第二条で、台湾を日本が領有すると、ただちに、台 湾の南側と、当時はスペイン領であったフィリピン群島との境界を、スペイン政 府が問題にした。これについては、日本とスペイン両国府の交渉があり、同年八 月七日の両国政府共同宣言(註)で、「バシー海峡ノ航行シ得ベキ海面ノ中央ヲ 通過スル所ノ緯度平行線ヲ以テ、太平洋ノ西部ニ於ケル、日本国及ビスペイン国 版図ノ境界線ト為スベシ」ということ、その他が決定され、日本領台湾とフィリ ピンの境界は明確にされた。
(註)『日本外交文書』第二八巻第一冊「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両 国宣言書交換ノ件」。
また同じ下関条約で日本が領有することになった、台湾の西側の澎湖列島の範 囲については、条約にその緯度・経度が明示されていたから、これと中国その他 の領土との境界も、はじめから明確であった。
ただ、台湾およびその付属島嶼の北側と東側の境界については、講和条約に何 の規定もなく、また、それに関する清国と日本との別段の取りきめも行なわれな かった。清国政府は、台湾はおろか本土の要地遼東半島までも一時は日本に割譲 をよぎなくされるほどの敗戦の打撃で、いまだ一度も放棄したことのない琉球に 対する清国の歴史的権利を主張する力さえ失っていた。まして琉球と台湾の中間 にあるけし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとり はなかったであろう。日本政府はそれをもっけの幸いとして、琉球に関する中国 のいっさいの歴史的権利を自然消滅させるとともに、かねてからねらっていた釣 魚島から赤尾嶼に至る中国領の島々をも、盗み取ってしまったのである。
一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
日本政府や日本共産党が、どんなに歴史を偽造し、ねじまげ、事実をかくし、 帝国主義の国際法なるものをもてあそんでも、中国の領土は中国の領土であり、 日本が盗んだものは盗んだものである。
したがって、日本が第二次世界大戦に敗れ、中国をふくむ連合国の対日ポツダ ム宣言を無条件に受諾して降伏した一九四五年八月十五日(降伏文書に正式調印 したのは九月二日)から、釣魚諸島は、台湾・澎湖列島や「関東州」などと同じ く、自動的にその本来の領有権者である中国に返還されているはずである。 なぜなら、ポツダム宣言は、降伏後の日本の領土に関して、「カイロ宣言の条項 は実行される」と定めてあり、そのカイロで発せられた中国、イギリス、アメリ カの三大同盟国の共同宣言は、「三大同盟国の目的は……満洲、台湾、澎湖島の ような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を、中華民国に返還すること にある」とのべているから(カイロ宣言中の「中華民国」は現在では、全中国の 唯一の政権である中華人民共和国と読み替えるべきである)。
釣魚諸島を盗み取った一八九五年以後に、日本政府がここを国内法的にどうあ つかい、ここにどんな施設をしようとも、また古賀辰四郎が一八九六年九月、多 年の宿願を達して釣魚全島を政府から「借地」し、そこで事業を盛大に営んだと しても、それらのことは、現在この島を日本領とする根拠には、まったくなり得 ない。また、日本が盗み取っていた期間に、中国からそれについて一度も抗議が 出なかったとしても、そのことは、「日本国が清国人から盗取したすべての地域」 は中国に返還されなければならないという、カイロ宣言の実行を規定したポツダ ム宣言の効力に、何の影響もあたえるものではない。
さらに、また日本が連合国に降伏した一九四五年八月以後も、アメリカ帝国主 義が琉球列島とともに中国領釣魚諸島を占領しつづけ、さらに一九五二年四月二 十八日発効のサンフランシスコ講和条約で、釣魚諸島をもひきつづき米軍の支配 下に置くことが定められたことも、それらの島が歴史的に中国領であるという事 実をすこしも変更するものではない。したがって現在、アメリカ政府から、釣魚 諸島の「施政権」が、「南西諸島」の米軍施政権にふくまれるものとして、日本 に「返還」されても、そのことによって、釣魚諸島があらためて日本領になるの ではない。どこまでいっても、中国のものは中国のものである。
それにもかかわらず、あらゆる歴史の真実と国際の正義にさからって、日本帝 国主義は釣魚諸島を、いま、「尖閣列島」の名で、再び中国から奪い取ろうとし ている。そして中国が、釣魚諸島はずっと昔から中国の領土である、この不法略 奪はゆるさない、と正当な主張をすれば、日本政府のみならず、軍国主義・帝国 主義に反対と自称する日本共産党も日本社会党も大小の商業新聞も、ことごとく、 完全に帝国主義政府に同調して、何らの歴史学的証明もせず、高飛車に、ここが 歴史的に日本領であることは自明であるとして、日本人民を、にせ愛国主義・排 外主義・軍国主義の熱狂にかりたてようとしている。
かつての天皇制軍国主義は、その最初の海外侵略のほこ先を、イギリスまたは アメリカにはげまされ、支持され、指導までされて、まず朝鮮・台湾に向け、そ れとの関連で、島津藩の半植民地琉球王国を名実ともに滅ぼして天皇制の植民地 とし、やがて日清戦争に突入した。そしてその戦争の勝利が確実となるやいなや、 琉球の向うの中国領釣魚諸島を盗み取った。これが近代日本の支配者が奪いとっ た百パーセント外国領土の最初の地であった。そしてこの天皇制軍国主義は、そ の後の日本帝国主義の、とめどもない朝鮮、中国、アジアの侵略につらなり「発 展」していった。
それとまったく同じ型の道を、いま、第二次大戦の惨敗から再起した日本帝国 主義支配層は、アメリカ帝国主義にはげまされ、援助され、指導どころか指揮ま でうけて、まっしぐらに突進している。一九六五年の「日韓条約」、六九年の佐 藤・ニクソン共同声明、そして本年五月十五日発効の「南西諸島」−−琉球と釣 魚諸島その他の島−−の「施政権」をアメリカから日本に「返還」するという日 米協定による、これらの地域の日米共同軍事基地化は、明治の天皇制軍国主義の 歩んだと同じ道である。そして釣魚諸島が、日本の奪いとる外国領土の最初の地 であるということまで、天皇制軍国主義そっくりそのままである。この次のねら いは台湾と朝鮮であろうか。
火事は最初の一分間に消しとめなければならない。いまわれわれが、日本支配 層の釣魚諸島略奪を放任するならば、やがて加速度的に日本帝国主義のアジア侵 略の大火は燃えひろがるであろう。ただし、朝鮮人民、中国人民、アジア人民は 、昔のように日本帝国主義の野望の実現をゆるすことは、決してないであろう。
帝国主義反対、軍国主義反対と、どんなに声高くさけんでも、アジア革命勝利 を百万遍となえても、現実に、具体的に、その日本帝国主義・軍国主義が、すで に中国領釣魚諸島に侵略の手を着けていることに反対してたたかわなければ、そ のいわゆる帝国主義・軍国主義反対は、現実には日本帝国主義・軍国主義を是認 し支持することにしかならない。
ましてや、「尖閣列島は日本領である」などといって、帝国主義政府と緊密に 協力しながら、「尖閣列島」の軍事的利用はゆるさない、ここを平和の島にせよ などという、日本共産党などは、日本帝国主義の積極的な共犯者である。帝国主 義が他国の領土を奪い取るのに全力をあげて協力しておいて、さてその奪い取っ たものの使い方に、平和主義をよそおう注文をつけるのは、きわめて悪質な人だ ましである。これと同じことを、かつて一九二七年以来の日本帝国主義の中国侵 略のさい、社会民衆党その他の右翼社会民主主義者がやった。いまの日共はそれ と瓜二つである。
「尖閣列島は日本のものでもない、中国のものでもない、それは人民のもので ある。われわれは、日本と中国の国家権力の領土争いには、どちらにも反対であ る」などといって、いかにも国際主義の人民の立場に立っているかの如く幻想す るものがある。これこそ掛値なしの「革命的」空論である。その空論で現実の日 本帝国主義を支援するものである。
この地上から、いっさいの帝国主義と搾取制度が消滅させられ、いっさいの階 級がなくなり、したがって国家も死滅する、遠い将来のことはいざ知らず、現在 、すべての具体的現実的な、生きた人間は、階級に編成され、国家に区分されて いる。この現代の、生きた人民の国際主義の最大の任務は、帝国主義に反対する ことである。とりわけ帝国主義国の人民は、何よりもまず自国の帝国主義に反対 しなげればならない。たとえ自国帝国主義と他の帝国主義国とが戦争した場合に さえ、国際主義の人民・プロレタリアートは自国帝国主義に反対してたたかう。 決してどちらにも反対などといってすましてはいない。まして自国帝国圭義が、 現代世界の反帝勢力の拠点である中国の領土を盗むのに反対しないような、反帝 はありえない。現在、われわれが日本帝国主義の釣魚諸島略奪に反対するのは、 それがまさに日本帝国主義の当面の侵略の目標であり、その達成によって日本帝 国主義がいっそう侵略を拡大する出発点がつくられるからである。とくに中国領 をとろうとするからそれに反対するのではなくて、外国領土を取ろうとする、こ れが再起した日本帝国主義の出発点であるから、今、すぐ、その出発点をつぶさ なければならないのである。そうするのは、中国びいきの人であろうとなかろう と、中国のためにするのではなく、日本帝国主義下にある日本人民の国際主義の 貫徹としてであり、だれよりもまず日本人民自身のためである。人民、あるいは プロレタリアートを、生命のない、抽象的観念と化してしまい、「人民」は日中 両国家の領土争いには反対である、などとの空論にふけることは、日本帝国主義 に反対する日本人民の国際主義のたたかいに水をぶっかけ、日本帝国主義を助け るものでしかない。
またある人々は次のようにいう。軍国主義に反対の日本人民は、いま日本と中 国との国交回復に全力をあげるべきである。そのためにまず解決すべきことは台 湾問題である。日本の支配者たちをして、完全に蒋介石一派と絶縁して日台条約 を破棄させ、台湾省は中国の一省であり、台湾省をもふくめて全中国を支配する 唯一の政権は中華人民共和国であるということを公式に認めさせ、その中国と日 本との国交回復をかちとることが当面の中心課題であって、釣魚諸島問題は、国 交回復後に、日中両国政府が平和五原則にもとづいて話し合いで解決されるだろ う、それまで釣魚諸島問題をさわぎたてない方がよい、などというのである。
この説は、公然と明示されていないけれども、ひじょうに広く存在している。 この説は、いま釣魚諸島問題をもちだせば、大衆は軍国主義者のあおるにせ愛国 主義のとりこになり、反中国になり、日中国交回復をさまたげるものとみなして いる。それと同時にこの主張は、中国政府は釣魚諸島問題が日中国交正常化の妨 げにならないよう配慮している、と伝えられているのを頼りにしている。このよ うに日本人民を信じないで、中国外交の賢明巧妙に頼るだけで、日本軍国主義と たたかうことが、どうしてできよう。われわれ日本人民は、中国政府のきめの細 かい巧妙な外交に頼ってわれわれ自身のたたかいを放棄するのではなく、反対に 今のうちにこそ、すなわち日中が国交正常化して、次の平和条約の交渉に移った 段階で必然に釣魚諸島の帰属が日中両国政府間の交渉の重大案件として大きく前 面に出て来る以前にこそ、われわれは声を大にして、釣魚諸島に関する歴史と道 理を人民にうったえ、日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範 に展開すべきである。いまそうしないで、この問題が日中政府間交渉の議題に上 ったときに、ようやく、釣魚諸島は中国領だと正論を宣伝しようとしても、その ときはすでにおそし、政府、自民党、日共をはじめ各政党とマス・コミがいっせ いにあおる、尖閣列島は日本のものだ、中国に屈服するな、などという反中国の にせ愛国主義と軍国主義の猛焔が、日本中をつつんでいることだろう。
釣魚諸島略奪反対のたたかいは、後日ではなく、まさに今日、日本人民が全力 をあげてとりくむべき、日本軍国主義・帝国主義反対の闘争の当面の焦点である 。このたたかいに目をつむって、反帝も反軍国主義もありえない。釣魚諸島略奪 反対の闘争と日中国交回復の闘争とを、切りはなしたり、甚しきは対抗させたり することは、じつは日帝を援助することである。本気で、まじめに、具体的に、 日本帝国主義軍国主義に反対してたたかおう。そのたたかいの、当面の最大の緊 急の焦点である、日本帝国主義軍国主義の中国領釣魚諸島略奪反対に、全力をあ げよう。
一五 いくつかの補遺
この原稿が印刷所に入ってから後に、私は二つの、それぞれにちがった意味で 、興味ある雑誌を見た。一つは、朝日新聞社発行の『朝日アジアレビュー』第十 号である。これには「尖閣列島」問題が特集されている。もう一つは台湾の学粋 雑誌社編『学粋』第十四巻第二期「釣魚台是中国領土専号」である(本年二月十 五日付発行)。これらの論文を、いちいち紹介批評するのは、ここでの私の目的 ではなく、これらに触発されて、私が考えたことを、本論文の補遺として、二、 三書いておきたい。
『朝日アジアレビュー』の高橋庄五郎の「いわゆる尖閣列島は日本のものか」 の一節は、東恩納寛惇が琉球諸島は元来日本領であったことの証拠の一つとして 、「オキナワ」その他の島名が日本語であることの意義を指摘しているのを引用 し、その論法を釣魚諸島問題に適用し、これらの島が中国名であることに注意を うながしている。
釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなか った。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占 」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤 立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地 であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあ いには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。
釣魚諸島は、明・清時代の中国人の琉球への航路目標にされた。福州から琉球 へ航するさい、まずこれこれの島を目標にし、ついでこれこれの島を目標にする と航路を確定するためには、その島々の位置を明らかにし、一定の名称をつけて おかなければならない。こうして釣魚諸島には中国人によって中国語名がつけら れ、かつそのことが中国の公的文献に記録され、伝承された。しかもその島々は、 中国の沿海にあり、中国領であることは自明の島々につらなっている。のみなら ず、その島々のさらに先につらなる島は琉球語名がつけられており、はっきりと 琉球領として中国語名の釣魚諸島とは区別されている。こういうばあいに、その 中国名の島々を、「無主地」だなどと中国人はもとより琉球人も考えるわけはな い。まして、本文でくわしく論じたように、中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島と の間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている中国の文献が二つもあり、江戸時代 日本人のこの島々を記録した唯一の文献『三国通覧図説附図』も、ここをはっき り中国領としているのだから、これでもなお、「無主地」ということは、とうて いできない。
高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚 諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、とし ている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸 島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であった ことはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書い たときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節に書いた 通り、ここは台湾略取と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもっ て、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約 にもよらず、清国から窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にい う台湾付属の島(地理学的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲さ れたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させ られたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとね らいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあ るが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない。
『朝日アジアレビュー』の奥原敏雄の「尖閣列島と領土帰属問題」は、「尖閣 列島」日本領論者がいよいよその帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものと して「興味」深い。彼は書いている、「無主地を先占するに当っての国家の領有 意思存在の証明は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法によ る正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領域取得に あたって、もっとも重要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有 意思が証明されれば十分である」(二〇ぺージ上段)と。彼はまた、「尖閣列島 の自然環境や居住不適性を考えるならば、現実的占有にまで至らなくても、国家 の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に 対する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう」(二一ぺージ上段)ともい う。
中国の封建王朝の領土支配の諸形態のうちの一つに、近代現代の主権国家の領 土支配と同じしかたのいわゆる実効的支配が行なわれていないからといって、そ こは「無主地」だと強弁する奥原が、日本国家の行為については、「尖閣列島」 は自然環境が悪くて人が住むのに適していないから、そういう地域は「現実的占 有」をしなくても、領有を「公示」しなくても、また日本領編入の国内法上の手 続きをしなくても、日本政府がここを日本領とするときめて支配すれば、日本領 である、とにかく、オレの領土として支配している所はオレの領土だ、というの である。これほど帝国主義的な自分勝手の議論がまたとあろうか。彼がこのよう に、なりふりかまわず、居直り強盗の論法をふりまわさざるをえないということ こそ、釣魚諸島日本領論の完全な破綻を自らばくろするものである。
奥原は、このような居直り強盗の論法で、明治十八年以来日本はここを領有し 、「統治行為」を行なってきたのだと、あれこれの事をあげているが、ここが明 治十八年以前に「無主地」であったという論証は、一字もしていない。彼はそれ 以前の論文で、陳侃や郭汝霖の記述は、釣魚諸島が琉球領でないことを示すだけ で、中国領であることを示すものではない、それは無主地であった、ということ は証明ずみであるかのようによそおっている。だが、その説に対しては、私は『 歴史学研究』本年二月号で、批判を加え、陳・郭の文章をどう読むのが正しいか を明らかにし、さらに、汪楫の使録で、赤尾嶼以西が中国領であることは、文言 の上でも明確にされているという史料もあげておいた。奥原はこの批判に対して は、一言半句も反論もせず、すっかり無視したかのようである。彼は反論できな いのである。
釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる 「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。私はその証明を、今回の論文で、前回の 『歴史学研究』論文よりも、いっそう明確にしたが、私見をさらに補強する史料 が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和 所記釣魚嶼」という論文である。
『日本一鑑』は、一五五五年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により 日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在三年の後に帰国して著作した書物である。 同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいた る航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開 釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅 花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標 に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨ リ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台 湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっ ていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の 行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄する ことになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記して いるのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確であ る。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちが いない。
『朝日アジアレビュー』の特集の巻頭言「尖閣を日中正常化の障碍とするな」 は、「尖閣列島」が歴史的には中国領であったことを、抹殺しようとつとめてい る。
いわく「共産圏では大体、欧米より国家主義が強い。チェコで案内書の一節に おどろかされた。いわく−−われらの祖先は、かつてアドリア海から北海にいた る地域を支配していた、と。
妙な話だと思い、よく読んでみると、その大国は神聖ローマ帝国のこと。チェ コの首都プラハは、大帝国の首都でもあったのである。
歴史主義もこの場合ご愛嬌だが、世界各国がそれぞれの最盛期における版図を 現在もし主張すれば、たいへんな騒動になるだろう。
尖閣列島の問題も、歴史主義だけではかたづかない。」
この一文はまるで、現代中国が、歴史上の中国の最大版図をいまの中国領であ ると主張しているかのように読者に印象づける。そして、同誌編集部のつくった 「尖閣列島問題年史」は、一八七二年、日本政府が琉球国王尚泰を琉球藩王とし たことからはじまり、それ以前の、陳侃使録以来、釣魚島が中国領と記録されて いる長い時代については、一字も書こうとしない。歴史をまったく無視抹殺して いる。
この年表によれば、明治十八年九月、沖縄県令がここを沖縄県所管とする国標 をたてるよう内務卿に上申したことになっている。これはうそである。事実は、 内務卿が国標をたてようとして沖縄県に調査を内命したのに対して、沖縄県は調 査の結果、ここは中国領らしいとの理由で、国標建設をためらう意見を出した。 このことは本文にくわしくのべた。
またこの年表は、一八八六年三月「海軍水路部『寰瀛水路誌』に尖閣列島に関 する調査結果を発表」と書いている。これでみると、いかにも日本海軍が独自に 調査したようであるが、実はそれは英国海軍水路誌の記述の抄訳であったことも 、本文で明らかにした。さらにこの年表は、一八九六年四月一日「勅令第一三号 による郡制の沖縄県施行により、沖縄県知事は尖閣列島を八重山郡に編入後国有 地に指定(魚釣島、久場島、南小島、北小島)」とある。勅令第十三号云々ので たらめも本文で明らかにした。
『朝日アジアレビュー』はこのように歴史を抹殺しながら、「国際問題に関心 をもつ日本人の多くは、尖閣問題について語りたがらない。中国に悪く思われは せぬか、商売上の損になってはこまる、といった発想法であろう。だが意見は意 見として述べないのは、信頼をえる道ではあるまい」などと、現在の事実をもね じまげる。
「尖閣」問題について、国際関係に関心をもつ専門家も、歴史家も語ろうとし ないのは事実である。私が『歴史学研究』にこの問題に関する論文を寄稿したら 、編集長は、それをのせたということで、委員会でつるしあげられたらしい。釣 魚諸島は歴史的に中国領であって無主地ではないことを考証した、学術論文を専 門雑誌にのせることさえ、容易ではない。
このようなことが起るのは、何も日本人が中国に気がねしてではない。まさに その逆である。日本の権力者、ジャーナリズム、右翼および日本共産党の顔色を うかがうからである。歴史学的にも、国際法論的にも、釣魚諸島は無主地だった とか、日本の領有は無主地の先占であるとか、まじめに、事実を事実とし論理を 論理とするかぎり、いえたものではない。しかし、そういわないで、ここは中国 領であったと正しいことをいえば、「国益に反する」「売国奴」として、さまざ まの中傷・迫害をうける。領有問題がもっと尖鋭になれば、正論を吐くものへの 迫害もいっそう尖鋭になろう。まして、議員選挙では、この正論は必ずしも得票 と結びつかない。それどころか、自分自身がにせ愛国主義を克服しておらず、大 衆は領土欲が強いものとひとりぎめにしている人々には、釣魚問題で正論をはけ ば大いに得票がへるだろうと恐ろしくてならない。議員候補者たらんとする者や 政党はみなそう思っているので、日本共産党のように、積極的に、「尖閣は日本 領だ」とどなりたてて、「にせ愛国主義」をあおって票をかせごうとするか、そ こまでだらくできないものは黙っている、ということになるのである。学者でも、 中国に気がねではなくて、日本の国家主義と日共に気がねして、正論をはくこと がこわい以上は、「沈黙は黄金なり」をきめこんでいるのである。
そして、「次元の低い国家主義」に反対と称する『朝日アジアレビュー』は、 この島々の歴史をまったく無視して、歴史的論文は一篇ものせないばかりか、年 表からさえも、これが中国領であることを示す事はすっぱりと切り棄てて、その 上に巻頭言で、専門家よ、歴史にこだわるな、ここが日本領であると大声でさけ べと煽動しているのである。
こういう危険な状況に対して、反帝とか反軍国主義とか日中友好とかをいう人 々が、毅然として立ちむかい、真実を真実として公然と発言することを切望する 。「尖閣の問題は、歴史的事実がどうか、法律の上でどちらが正しいか、 私などにはよくわからないので、だまっているほかない」などと、いいかげんな 逃げ口上はやめて、わからなければ研究し調査して、どんどん発言しようではな いか。これは、よくわからないですませられるような問題ではない。再起した日 本帝国主義軍国主義に反対するかどうか。われわれ日本人民の前途にかかわる決 定的な問題である。
(一九七二年六月十一日追記。『中国研究月報』六月号)
(巻末添付の林子平『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」は略す)
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