
日本の右翼団体が釣魚島(日本名:尖閣諸島)に灯台を立てたことを発端する 中国人の抗議運動は、香港と台湾の活動家が釣魚島に上陸し五星紅旗と青天白日 旗を立てたことで、収束に向かいつつあるようだ。
しかし、釣魚島の領有権の問題が決着したわけでないので、今後も同様な事態 が繰り返される可能性が否定できない。この問題に関する歴史的事実を今後も勉 強していくことは問題の解決に意味があろう。
このたび、前号の本誌で紹介した『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』の 作者井上清氏より掲載の許可をいただいたため、全文を「華声和語」にて掲載さ せていただくことになった。ここで謹んで感謝を申し上げる次第である。なお、 全文をOCRで入力し、校正した中国フォーラムの巽良生氏にも感謝する次第で ある。
『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』は全部で4回に分けてお届けする。
今後も、この問題に関する他の著書の掲載許可があれば、掲載していく予定で ある。読者からのご協力をお願いしたい。
『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』においては、井上氏の政治的立場も 示されたように感じられるが、COMとしては、日本の内政に関与するつもりは 無く、氏の、歴史事実を厳密に追い求める精神に敬意を表するものである。
井上清氏は、1913年日本高知県生まれ。1936年東京大学文学部卒業。 現在、京都大学名誉教授。著書に「条約改正」、「日本現代史」、「日本の軍国 主義」、「部落問題の研究」、「日本女性史」、「日本の歴史」等がある。
この論文『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』は、1972年10月現代 評論社から出版された井上清氏の著書が釣魚諸島問題と沖縄の歴史との2部構成 であるうち、釣魚諸島問題に関する第1部の全文であり、著者の同意のもとに転 載するものである。
なお、本論文は、1996年10月10日第三書館から上記と同じ書名で再刊 された。
この論文の全データは、NIFTY−Serveの中国フォーラム(GO CHINA)LIB2にも 登録した。また、http://www.mahoroba.or.jp/~tatsumi/にも掲載している。
一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか 二 日本政府などは故意に歴史を無視している 三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている 四 清代の記録も中国領と確認している 五 日本の先覚者も中国領と明記している 六 「無主地先占の法理」を反駁する 七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった 八 いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない 九 天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島 一〇 日清戦争で日本は琉球の独占を確定した 一一 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた 一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った 一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である 一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である 一五 いくつかの補遺
一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目 的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究 し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なた たかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろ な人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのため の文献も得たいと思った。
私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖 縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆の東およそ百二十浬の東中国海に 散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それ をたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、 この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教 えを受けたいと思っていた。
さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖 閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。 のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここ を日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであ り、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇 年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを 知った。
これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」−−正しくは釣魚諸島あるいは釣 魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)−−は、日清戦争 で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦 で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した 瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなけれ ばならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義 の再起そのものではないか。
領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題を でっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起 した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、 日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。
一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。また この近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要 であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍 事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにア メリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(日本で久場島 という)を、五六年四月以来赤尾嶼(日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、 それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメ リカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れるこ とを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島) には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタ ールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水 艦基地もつくれる。
この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層の ここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国 主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これ らの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、 この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことが ある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他 の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さ らに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用す ることとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日 新聞』一九七二・五・一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつ くりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っ ている。
それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにする ことは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻 を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史 を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、 中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本 の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認す ることができた。
まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、 わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めに は西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。 そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列 島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』 七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論 文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領であ る」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせ ることにした。
そのとき私は、次のように考えていた。
−−もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研 究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君 の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわか っている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献 も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、 釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間に にせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それ が完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、 歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱ な、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっている ことだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公 然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つま り玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。−−
こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨ ーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学 界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざる を補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとする ものもなかった。
要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。
小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったの ではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、 歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本 の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国 主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわること であると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。
琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行 中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義 政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍 国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、 日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張 することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ 大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。 じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。
この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、 公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところ いわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の 組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もは や釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣 魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、 日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、ま た釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあって も、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪 に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九 七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が 旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列 島の開発」に、早くも熱をあげていた。
まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇 気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚 諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、ど のようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそ そいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。 まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図 で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路 誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、 それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。
けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは 訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急 進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。
この論文の主要な課題は二つある。
第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確 認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどし かったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか 加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを 明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さ けがたいことである。
第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これ は、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の 勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく 明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを 訂正しなければならない。
すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは 正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、 台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いた のは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、 公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に 乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と 窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。 このことを論証するのが、本論の第二の課題である。
本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみ なさんの御援助をお願いする。
二 日本政府などは故意に歴史を無視している
現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張 したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球 政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。そ れは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇 登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁 業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、 これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。
この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権およ び大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、 「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの 列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十 二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ 民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のよ うにのべている。
(1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知ら れており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために 琉球に派遣する使節−−冊封使−−が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来し たときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島 々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』に も、この島々の名が見える。
しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の 文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。 これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、 あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげている にすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。こ れには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々−−井上)を中国領 であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中 山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの 傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしま した。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼な どを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、 これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのでありま す。」
要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国 家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのでありま す。」
(2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、 同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島 (尖閣群島のあやまり−−井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれてい る。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろか ら、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こ うした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、は じめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出て います。」
(3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これま でと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申 して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議 提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこ で「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通 り標杭を建設させることにした。」
(4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十 三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行 われています。」
琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、 るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、 一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごま かしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後 にいちいちばくろする。
本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、 朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本 共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が 出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新 しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領 有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定す るまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、 これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民 地主義・帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しか るにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証 明をしていない。
外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたっ て現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んで いる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決 定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけであ る。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治 十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちに これを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領 有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっ ても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ 証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりか えしにすぎない。
共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖 縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本 側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島 を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民 が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有 を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふく まれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」
朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、 すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路 目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示 した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するよ うな歴史的事実もない。」
日共や朝日新聞はこのように、明・清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際 的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、この さい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政 府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非 科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているの である。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をす るわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレッ トなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、 政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろう とはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士 館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものは まだ一人もあらわれていない。
三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日 本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにした ものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古 文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」 という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずが ない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以 前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』 (一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一 九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光の『中山傳 信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて 高いことは後にくわしくのべる。
琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国 の執政官向象賢)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、 琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則が、一七〇八年 にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかな い。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃の『使琉球録』から、中 国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ていると いうだけのことで、向象賢自身の文ではない。
(註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。
また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から 琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であ り、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書 および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇 帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来= 陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いた とはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。
つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚 諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然 ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るとい うこと以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚 諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術 では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近 よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を 介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほ とんどなかったし、またその必要もなかった。
琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさ んある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があっ た。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであ り、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇の中国沿海襲撃に備えるた めに、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。
この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを 確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はす でに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼 (後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。
十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那 覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明ら かでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に 航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行 の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭 (台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「十日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は) 甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。 目接スルニ暇アラズ。(中略)十一日夕、古米山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。 乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、 家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳 侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳 侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使 録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたで あろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失して いた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖の『重編使琉球録』にも、 使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し(閏五月初一日、 釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風ア ラバ、即チ姑米山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早 い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって 「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いてい ることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝 があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に 到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭 が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だ というのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。
そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖 甲午使事紀ニ日ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に 五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。 向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立 において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書という よりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書 物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、 久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中 国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政 府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であるこ とを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側は もとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、 きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの 側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球 領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面の みからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だという とき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中 国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通 り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけて ある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でも う一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方 をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その 「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々 に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、 琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み 方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべた のも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米 島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これ も、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中 国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない 自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよ らなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であ ることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論 は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に 書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論 法であろう。奥原は次のようにいう。
陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわち そこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにして いるだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国 人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、その ように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や 郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、 と。
たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たは ずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書 かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いていないから、中国 領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛 躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈 のしかたはないではないか。
おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の 文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲が編纂した『籌海図編』 (一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわってい た倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、 倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本 である。
本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」−「福八」にまたがって、福建省の羅源 県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣 魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東 へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はま だしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東 に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示 している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域 にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、 中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠 はどこにもない。
一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、 これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、ある いはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の 中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」 は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、 これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、 しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛 区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識 別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのする ことであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は 別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじ つけるためのたわごとにすぎない。
四 清代の記録も中国領と確認している
以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ご ろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記 録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島 が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考 えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸 からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準 では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さり とてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを 無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっ きり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国 の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南 沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。
郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三 回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭 二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記 録は、一部分の引用文しか見ていないので、領界についての記述の有無はわから ない。この後まもなく明朝は滅び、清朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代 と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、 その使記にも、中・琉の領界の記述はない。
このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原に よって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひね り出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使 記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使 節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球 政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない)。そ れゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけ であるが、彼ら自身の使記に、それを書きつづけるほどの特別の関心または必要 がなかったまでのことである。
ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫は、一六八三年に入琉するが、その使録 『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記 事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次の ように明記している。
「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻 彭佳山ヲ過ギ酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ 赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊( 或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソ ギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・か ぶとをつけ、刀を抜いて)舷ニ伏シ、敵ヲ禦グノ情ヲナス。之ヲ久シウシテ始メ テヤム。」
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」 とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「日ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。
「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」
右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出 したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メート ル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百か ら二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに 赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が 荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざや かである。
この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊の『使琉球録』にも注目され ており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』 とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが 「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船 がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする 慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年 入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元の『使琉球録』および一 八〇八年入琉の斉鯤の『続琉球国志略』に見えている。
これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりで なく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通 り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言 葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、 こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。
さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのと くに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪 楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は 汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西 が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、す ぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも 広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出 ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけ であるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけら れているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正がないかぎり、彼も汪・周 とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼 以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明 示したものはない、などといえようか。
斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしてい るのみならず、「琉球ノ夥長」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記 し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であ り、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったと いう体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの 場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」と いう意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所と いう意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使が ともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。
のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入 琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。
徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、 従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、と くに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入ると すぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二 十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者−−とくに琉球の王国時代を通じて地理の 最大の専門家蔡温(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。
(註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理・天文・気象を専攻した。後に王府 の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前 出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)
『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はき わめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書 および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に 関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、 福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、 福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から 姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」 と註している。
この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南 広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原 文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その 考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実 質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程 と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても 言いすぎではないから。
(註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。
もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正 確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、し かもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群 島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島につい て、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知 りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、 「鎮」という字に重要な意味がある。
「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣 魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島 であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である 沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」 と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉 球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球 人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南 方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であること は、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じで ある。
(続く)
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