第105号 

1996年(平成8年)9月18日発行    1994年(平成6年)11月 1日創刊

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領土問題●釣魚島の歴史的真実について              魯 掖
領土問題●釣魚島灯台問題を迅速に解決し、中日関係の前進を    徐 剛
編集後記
【領土問題】
釣魚島の歴史的真実について

魯 掖

 日本侵略主義者がこの百年来ずっと我が国の釣魚島を狙ってきた。最近になって 更に過激になった。我が同胞に歴史の真相を知ってもらうために、歴史資料に基づ いて、この文章を書いた。

●釣魚島は明朝も清朝も中国に属した

 釣魚島は台湾の東北に位置し、釣魚台島、黄尾嶼、赤尾嶼等八個の島礁を含む。 中でも釣魚台島は最も大きく、面積四点五平方キロで、島には九つの峰があり、主 峰は海抜三百六十九メートルの高さである。資源豊富な釣魚島は付近の海底に八百 億バレルの石油があると言われている。

 釣魚島は台湾基隆港から僅か百九十キロしか離れておらず、沖縄からは四百二十 キロもある。釣魚島は中国大陸棚の自然延長からなり、大陸との間の海は最も深い 処でも二百メートルの水深しかなく、琉球方向に三キロいくと二千メートルの深い 海溝が横たわる。地理的には、釣魚島は琉球列島とは関係がない。

●列島の最初の名前

 中国の古い文献の中の、明朝永樂元年(一四○三年)の《順風相送》という書には、 釣魚島の航海針路と島々の名称については既に記述があった。この書の原抄本は現 在英国オクスフォード大学ボドリン(鮑徳林)図書館にある。一九六一年中華書局 が出版した《兩種海道針經》には、《順風相送》が海道を示す針路の一つとしてリ ストされている。その序文では、《順風相送》は永樂元年に既知の航海針路を校正 に校正を加えた成果として編成されたものだと書いてある。

 《順風相送》の中には、海に出たら東南方向で行くと台湾に付き、そこから東北 方向で少し北よりして行くと”釣魚嶼の南側”に到り、そこから東へいくと“赤嶼” に至り、更に東南へ行って琉球にたどりつく、と書いている。これは、釣魚嶼、赤 嶼(即赤尾嶼)等の名称は一四○三年、或はその以前に既に我が国に命名されてい たことを意味している。これらの名称は明清の五百余年以来現在までずっと使用さ れつづけてきた。

●“尖閣諸島”の名前の由来

 一九○○年(一八九五の誤りかもしれない:訳者)以前の日本文献の中では釣魚 島の名称に我が国が決めた名称を採用していて、中国領としていた。例えば江戸幕 府時代、日本の学者林子平が書いた《三国通覧圖説》(一七八五年出版)は付図の 中で、“釣魚台”、“黄尾嶼”、“赤尾嶼”を明確に中国福建海域内にあると書い ているのみならず、我が国の定めた名称を使っている。一八四五年六月英国”サマ ラン(薩瑪朗)”号軍艦が釣魚島を測定したことがあり、一八五五年にその測量結 果を《台湾――日本間諸島嶼及附近中国沿海圖》にて公表した。英国海軍は釣魚島 の東南の大小の岩礁を総じて“尖礁群”と呼んだ。

 一八六六年,日本明治十九年、日本海軍省水路局が編集した水路志の《寰瀛水路 志》も上述した圖や記述に従っている。更に漢字で“尖閣群島”と併記している。 当時指していたのはただ釣魚島東にあった岩礁群であった。まさに日本の井上清が 《關于釣魚島嶼的歴史歸属問題》に書いたように、この岩礁群の中心的なものが尖 った塔の形をしており、英国人はこのこの岩礁群を“尖礁群”と名付けた。故に日 本海軍省水路局の《寰瀛水路志》の中の“尖閣”という名は、英国海軍から来てお り、当時は釣魚島の東の岩礁を指していた。

 一九○○年(明治三十三年)五月冲繩師范学校教師岩恒氏が《英国海軍水路志》 などを読んだ後、宮島十之助工学士と一緒に“釣魚島”等の地質を調査に行き、釣 魚島に新しい名前”尖閣諸島”を付けた。これは英国海軍が釣魚島の東の岩礁に付 けた”尖閣群島”を拡大して、釣魚島をも入れて、”尖閣諸島”と称した。これが ”尖閣諸島”の由来である。

 また、琉球の大学者程順則が一七○八年に完成した《指南广義》には、福州から 琉球に至る航程に用いられた島の名称はすべて我が国が一四○三年以来使っている 釣魚島等の名称であり、いわゆる“尖閣”はなかった。

 以上の国外内の歴史資料から判明するように、中国は十四世紀初期に既に釣魚島 の命名をしており、日本のいわゆる“尖閣列島”という名称は中国の命名よりは約 五百年も遅れている。

●釣魚島に関する中国の歴史資料

 北京図書館が明朝時代の使者陳侃氏の《使琉球録》を印刷したことがある。この 著書の中では、一五三四年の有る日、陳侃氏が船で”釣魚嶼、黄尾嶼……赤嶼”を 過ぎ、翌日夕方やっと”姑米山”が見え、琉球についた、と記述している。明らか に、当時は”釣魚嶼”などの海域は既に中国領であり、琉球領ではない。

 明朝時代の浙江提督の胡宗憲氏は《籌海圖編》という本を編集した。これは客観 的事実に基づき、少しも憶測が混じっていないというほどであった。一五六二年、 同じく明朝時代の学者茅坤氏はこの本に序文を書き、本の内容の真実さを評価して いる。この本の中の地図には“釣魚嶼”、“赤嶼”等を含む福建沿海の各島の名称 を記入したが、当時の琉球領に属する島は一つも記入しなかった。今でも、この地 図を中国科学院圖書館で見ることができる。この地図も、当時から釣魚島は中国領 であることを立証している。

 中国の南東海域と琉球との境界は”姑米山”で、船で”釣魚嶼”までより二日多 く時間がかかる。この距離についても、明の胡靖氏の《琉球記》、清の汪楫氏の《 奉使録》(一六八三)の中にも記述している。これらの資料によると、当時は、“ 釣魚嶼”を通り、“赤嶼”を過ぎてから、初めて”姑米山”が見える。”姑米山” に入ると、琉球側は入国とみなし、船で護航しながら、”烽火”を燃し、琉球国の 国王に知らせていた。

 清の始めごろ、琉球も琉球国の地図を編集したことがあり、《中山世譜》という 本を康煕皇帝に献呈していた。この本の中では琉球国に属する三十六の島を列挙し ていたが、“釣魚嶼”などの島は無かったのである。

 一八○八年清の嘉慶期、 琉球への使節齊鯤氏が《航海八咏》(北京首都圖書館に 保存)を書き、当時の国の境界について以下のような歌を記している。

第七咏,詩名《姑米山》,律詩八句:

    忽睹流球状,西来第一山,     半天峰断續,八嶺路回環。     海霧微茫里,船風瞬息間,     球人欣指点,到此即卿關。

 この歌の題目には”この山からは琉球領に入る”と注意書きを記していた。明ら かに、当時では、”姑米山”からは琉球領になり、”姑米山”の西側は中国領であ り、琉球領ではなかったのである。

 清の乾隆期に編集された《台湾府志》でも、“台湾港口”の一つに、“釣魚台島” がはっきり記されていた。

 清の光緒四年(一八七九年)、日本が琉球を強制編入してから十年立ってからも、 清朝廷はやはり釣魚台島は中国領であることを明確に主張していた。

● 一つの逸話

 価値がある興味深い歴史資料の一つに、清の慈禧太后叶赫那拉氏(西太后)が釣 魚台等の島を李鴻章の幕僚大臣盛宣懷(一八四四〜一九一六)に“賜った詔書”が ある。この資料は釣魚台等の島の主権が中国に属することを立証している。詔書の 原文は以下である:

“皇太后詔諭太常寺正郷卿盛宣懷所進葯丸甚有效驗,据奉原葯材采自台湾海外釣 魚台小島,靈葯産于海上,功效殊乎中土。知悉該郷家世設葯局,施診給葯救濟貧  病,殊堪嘉許。即將該釣魚台島、黄尾嶼、赤嶼三小島賞給盛宣懷爲産業,供采葯  之用。其深体皇太后及皇上仁徳普被之至意欽此。”

 日本語訳:“太常寺正郷卿盛宣懷が進呈した丸薬は効能が著しく、薬の原材料は 台湾近海の釣魚台小島から採れたとのことで,まさに靈薬が海から生み,効能が中 土に効く。汝が代々薬局に励み、診療処方で貧病を救うことが特に嘉すに値するの で、皇太后は釣魚台島、黄尾嶼、赤嶼の三つの島を産業として盛宣懷に賜り、薬草 の採取に供する。皇太后及皇帝の厚恩を感銘されたし。”

● 一八九三年(清光緒十九年)十月

 当時の封建社会において、国の皇帝が土地を臣下に“領地”として“賜る”こと がある。ただし、その領土の主権はあくまで国が所有し、それを臣下に享受させる ために賜るわけである。もし領土が国家のものではなければ、皇帝が決してそれを 臣下に賜る権利がない。このことからも、日本が琉球列島を編入して十四年後(一 八九三年)の清の光緒十九年には釣魚台島が依然中国に属し、日本に占領されてい なかったことが分かる。

 この“慈禧詔書”のマイクロ版と英訳は、一九七一年十一月九日に米国上院外交 委員会において記録に登録され、さらに出版されている。これは、中国が釣魚列島 の主權を有することを証明する重要な歴史資料の一つである。日本が中国の釣魚列 島を占領したのは、十九世紀の末になってからなのである。

●日本が釣魚島を占領した前後

 日本の古書には“釣魚島”あるいは“尖閣島”の名称はなく、さらに釣魚嶼等島 に関する記載も全くない。

 一七一九年に日本の学者新井君美(新井白石)著の《南島志》は琉球管轄の三十 六の島を記載しているが、その中には釣魚嶼等島がない。《南海志》(《南島志》 の誤りかもしれない:訳者注)は《甘雨亭叢書》に収められ,中国科学院圖書館に 保存されている。    《琉球地理志》の中で、日本政府が十九世紀七十年代において釣魚島が琉球の管 轄範囲に属するとは認めていないことを日本の文献が立証している。《琉球地理志 》は、日本の十九世紀七十年代の琉球地理に関する文章を、清の駐日使館役人姚文 林が訳したものである。その中に日本の明治八年(一八七五年)に日本政府が編纂 した地理書籍,日本文部省が編纂した小学教科書などが含まれる。更に、日本海軍 省實例圖説をも参考にしており、この中に琉球諸島各島の名称を網羅しているが、 “尖閣列島”あるいは“釣魚島”等が全く記載されていない。これは日本政府が十 九世紀七十年代において釣魚島を琉球の範疇に属すとは認めていなかった証明であ る。

 一八九五年日本がわが国台湾省を占領する以前に発行された日本の地図には、釣 魚島は日本国版図の中に含まれていなかった。例えば、アメリカハーバート大学ウ ェンサ(温莎)記念図書館に所蔵されている、『府県改正大日本全国』(一八七五 年出版)や、『大日本地理全図』(十九世紀出版)の中には、琉球群島は、釣魚島 を含んでいなかったのである。

 日本軍国主義者の侵略野心は、十九世紀七十年代から膨張してきた。一八七九年 に日本は、琉球群島を占領し、それを”沖縄県”と改名させた。更に我が国の台湾 省及び台湾省に所属する島々を奪おうと企てていた。当時の日本内務大臣が沖縄県 に釣魚島を”調査”するようとの極秘命令を出しており、そこに”日本国標識”を 建てようとしていた。当時の外務大臣井上馨氏は、このような強引な方法が無理だ と判断し、明治十八年(一八八五年)内務大臣への手紙の中に、清国が既に釣魚島の 名前を定めていることや、日本が台湾付近の島々を占領したと清国で頻りに報道さ れていること等を理由に、標識の樹立及び開発事業等が後日のチャンスを待つよう に求めていた。

 一八九四年になって、日本が戦争で旅順口を占領し、清国海軍の北洋艦隊を威海 衛に封じ込めることができた。このような絶対優勢の下で、明治二十八年(一八九 五年)一月十四日日本内閣会議において、冲繩縣の「釣魚島に標識を設置し、正式 に占領する」との決議を”認める”決定をした。一八九五年三月中旬、日本艦隊は、 台湾南部を避け、膨湖諸島に上陸し、同島の全ての砲台を占領した。それを拠点に 台湾への侵攻準備を進めていた。同時に清政府と講和交渉も進め、清政府に台湾を 割譲させることに成功して、釣魚島を占領した。

 以上の史実から分かるように、甲午戦争(日本名:日清戦争)における清政府の 敗戦によって、台湾と釣魚島が同時に日本に占領されるようになった。台湾、膨湖 及び釣魚島は、何れも甲午戦争後に日本に略奪されたものである。

 第二次世界大戦後、日本は武力によって侵略占領した我が国の全ての領土を返還 すべきである。

 一九四十五年七月二十六日の《ボツダム宣言》は、「カイロ宣言の諸条項は実行 されなければならない。日本の主権は本州、北海道、九州、四国および我々によっ て決められるその他の付属の島々に限定されるべきである。」と言明している。「 カイロ宣言」のなかで、「日本が中国から強奪した領土、たとえば満州、台湾、澎 湖群島などは中国に返還される」と明確に記されている。従って、これらの国際条 約は、台湾、澎湖群島及び釣魚島を含む島が、一九四五年に日本が降伏したあと直 ちに中国に返還されるべきだと明確に指摘している。

 日本は第二次世界大戦中の侵略国であり、侵略国は武力によって略奪したすべて の他国領土を返還するのは当然である。しかし、釣魚島は一九四五年から一九七二 年までの間米軍によって占領され、米国は一九七二年に琉球の行政権を日本に渡し た時、日本は再度釣魚島を占領し、現在まで居座りつづけ、日本の固有の領土だと まで主張している。

 この侵略行為に対し、中国外交部(外務省)は一九七一年十二月三十日に「中国 人民は必ず釣魚島など台湾の付属島嶼を取り戻す」との声明を発表した。一九七二 年の「北京週報」は外交部のこの声明を全文転載したほか、釣魚島の歴史を詳細に 解説した。台湾、香港、マカオおよび海外の学者や愛国同胞は文章や手紙を寄せ、 声明を発表し、主権を守る決意を示した。    我が国は清の同治二年(一八六三年)に公開発行した「皇朝中外一統輿図」の中、 「中外の境界」をはっきりさせており、姑米山の東は琉球に属するとしており、中 に日本語の注釈もつけている。姑米山の西の赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚嶼は皆わが国の 版図に属し、日本名が付けられていない。

 版図内の領域と国民の生活との間に密接な関係がある。台湾漁民は数百年の間釣 魚島漁場で捕獲し、島の廟、寺はすべて台湾式の建築物であり、昔台湾漁民によっ て建てられたものである。島付近の海底に少なくとも800億バレルの石油が埋蔵 されており、これらの埋蔵物の形成は我が国の東南部の河川から流れた大陸の有機 沈殿物と密接に関係している。

 一九五八年ジェネーブの国際会議で「大陸棚公約」が制定され、大陸棚地理構造 及び国際法の「隣近原則」からみても、釣魚島は我が国の台湾に属し、他国の侵犯 を許すことができない。この上、三百キロあまりの領海の境界にも関係しており、 なおさら取り戻さなければならない。

 歴史、地理および地質構造上から、また法理的にも釣魚島はわが国の領土である。

 学術的に、歴史的にこの問題を探求することが、非常に重要な意味をもつだけで なく、十二億の中国国民の愛国、反侵略と邁進の情熱を一層向上させることができ る。

《北京之春》1996.9より 日本語訳:徐剛、周毅、銭飛、関陽、陳延偉、徐強

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【領土問題】
釣魚島灯台問題を迅速に解決し、中日関係の前進を
                              徐 剛

 釣魚島(日本名:尖閣諸島)に日本の右翼団体が灯台を立てた事件で、台湾、香 港、海外と中国本土で抗議運動が広がっている。台湾の抗議船が灯台の撤去を求め て釣魚島に上陸しようと試みたり、香港では抗議デモのほか、日本製品不買運動が 呼びかけられ、海外にいる中国人留学生の間でも抗議運動が組織されている。北京 でも、政府に対して断固とした措置をとるよう求める署名運動が行われた。

 中国政府は、日本政府に厳重抗議を行い、この団体に対する「当局の放任と慫慂」 を非難し、灯台の撤去を求めた。人民日報は「日本は愚かなまねをやめよ」という 論説を発表し、灯台問題や日本首相の靖国神社参拝問題に関連して近年まれに見る 日本批判を展開した。

 これらに対して日本政府は、灯台が立てられた場所は「私有地」であることを指 摘し、灯台の建設を「支持したわけではない」と反論している。今月10日、この 右翼団体は航路標識として灯台の許可申請を行った。海上保安庁は調査をし、20 日以内に結論を出すこととなっている。灯台が海図や灯台表に載れば、日本の領土 として国際認知されるのが狙いである。7年前も、同団体が同様の申請を行い、海 峡両岸からの反対で許可されなかった経緯がある。

 釣魚島は日本の実効支配下にあるとは言え、灯台を作るとか、既成事実を積み重 ねようという行動が中国人民の強い反発を招くのは当然だ。日本政府がこのような 行動に対して阻止する努力を見せない限り、右翼団体が勇気づけられ、我々の反発 は強まるばかりであろう。

 釣魚島は中国固有の領土であり、日本が釣魚島を沖縄県に「編入」したのは甲午 戦争(日清戦争)後の1895年であった。中国からすれば、台湾までを割譲させ られた状況下での、武力を背景に一方的に宣言されたものであり、到底認められる ものではない。第二次世界大戦後、アメリカがこの無人島を支配し、1972年に 沖縄を日本に返還するときに、釣魚島の「施政権」も一緒に日本にわたした。この 時に、第一次保釣運動が起こった。現在アメリカは釣魚島の領有権に関しては中立 を表明している。中日平和友好条約締結時に、領有権の問題を継続協議とすること が両国の間で合意され、紛争を避けるための努力が双方でなされた。とう小平氏は この問題を「次世代に任せよ」という言葉が有名である。

 領土問題はどの国も譲ろうしない問題であり、感情的になりやすい問題でもある。 これで両国が争っていれば、必ず両国関係の他のあらゆる側面に悪影響を及ぼす。 中日関係は経済関係を中心に1972年の国交正常化以来順調に発展してきており、 日本が中国の一番の貿易相手国であり続けてきた。日本は中国の改革開放政策を支 援するという基本方針に従って、円借款の供与(中国政府の対日戦争賠償請求の放 棄に対する返しという側面もある)など、中国の近代化建設に貢献してきた。一方、 対中貿易が日本の対外貿易の中に占める割合も年々増加してきており、対中投資に 多くの日本企業が活路を見い出している。また、人的交流や文化交流も大きく発展 した。経済関係と比べ、両国の政治関係や安全保障関係はそれほど緊密とはいえな いが、アジアの二つのスーパーパワーが対立と衝突をすれば、アジア全体の平和と 安全が無に化してしまう。このような大局的見地に立って、この灯台問題を解決す べきことは明白である。日本政府に対しては、灯台に反対する明確な態度表明を求 めると同時に、我々の抗議も両国関係の更なる前進を目標に据えたものであるべき だと思う。

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【編集後記】
 台湾、香港、海外と中国本土が釣魚島の問題で抗議の嵐のような状況にあるにも
関わらず、日本のマスコミは「沈黙」を守っており、竹島(韓国名:独島)のとき と好対照をなしています。両国関係への配慮が働いているのでしょうか。しかし、 問題に関する正確な情報と真剣な歴史的検討を日本国民に伝える努力こそ事態の深 刻化を防ぐためになると私達は思います。この特集号もそのための一助となれば幸 いであります。また、釣魚島問題に関する読者からのフィードバックは、いつもと 同様、待ち望んでいます。

 なお、華声和語第104号には、誤りがあったので、この場を借りて、訂正させ ていただき、お詫び申し上げます。「領土問題●中国徐大使は尖閣の灯台建設で抗 議」のところは、「領土問題●中国駐日大使は釣魚島の灯台建設で日本政府に抗議」 に改め、「医療諮詢●「全身免疫系統缺乏症」の病気薬を尋ねる」の投稿者は侯波 氏でなく、秦暁凌氏でありました。編集部一同は今後も質の向上を努めてまいる所 存であります。


 《華声和語》第105号 編集担当:徐  剛@琵琶湖            校正担当:村木 毅@大和            技術担当:銭  飛@広島            編集局長:村木 毅@大和            連 絡 先 com-l-request@come.or.jp            無料購読 Subject: subscribe-com            自動脱退 Subject: unsubscribe-com            HELP Subject: help            既刊購読 HELP参照
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(C)www-admin@www.come.or.jp (F.Qian),         Sep.25 1996